「インドネシア大統領パレス(19)」(2024年10月22日)

1930年代にバタヴィア在住のオランダ人や他の西洋人たちの間でナイトライフを楽し
むことが流行し、ホテルではボールルームで舞踏会が夜な夜な開かれた。20世紀後半の
時代までジャカルタのホテルはボールルームを備えているのが常識だった。ただし、ボー
ルルームという名前で呼ばれていても、そのころその広間の用途は音楽演奏会や大集会が
メインを占めていたような印象が濃い。

オランダ時代にホテルネーデルランデンでは週末どころか毎夜19時から23時まで楽団
が入って舞踏会が開かれていた。そこにやってくるひとびとはたいてい友人夫婦同士が集
まって豪華な晩餐をレストランで摂るのを習慣にしていた。

スカルノ大統領が独立宮殿の主だった時期には、大統領護衛部隊チャクラビラワが司令部
をダルマニルマラに置いていた。スハルト大統領がG30S事件の処理を完了させた後、
チャクラビラワは解散させられ、同時にホテル建物も撤去されたという流れだったように
思われる。


独立宮殿と国家宮殿の中間の位置に、ティン・スハルト夫人の発案で1971年に建設さ
れたプリバクティレナタマは、最初国家資産である絵画彫刻などの芸術品・骨とう品・歴
代大統領が得た贈答品などを展示するためのミュージアムだった。しかし歳月の経過とと
もにそれらの資産は増加の一途をたどり、ついに置き場所に困るようになった。

メガワティが副大統領のときに博物館はビナグラハに移され、博物館所蔵品も移動したと
いう記事も見られる。そしてメガワティが大統領になると、プリバクティレナタマは大統
領執務オフィスに建て替えられ、ビナグラハに収納されていた2千点に達する博物館所蔵
品はボゴール・チパナス・ジョクジャ・バリの宮殿に分けて保管されることになった。

メガワティのその方針を快く思わない国民の声もあった。中でも、スハルト時代にレナタ
マ博物館を訪れたことのある国民のひとりは、国家資産である芸術作品を見る機会がなく
なるという意見を新聞に投書した。その批判に対して大統領宮殿官房長は、レナタマ博物
館が一般人に入れなくなったのだから、地方の大統領宮殿博物館に置いて国民の目に触れ
るようにするのが良策であると説明している。

ユドヨノ大統領はメガワティの作った大統領執務オフィスをまったく使わず、そしてまた
ビナグラハの二階を大統領スポークスマンの事務所に変えた。かれ自身は独立宮殿に住ん
で執務し、スカルノのスタイルに従っている。[ 続く ]