「インドネシア大統領パレス(20)」(2024年10月23日) 3.ボゴール宮殿 Istana Bogor ボゴール市内中心部の28.4Haの地所にボゴール宮殿がある。建物は14,892平米 の土地を使い、残りはおよそ百本の巨木が緑陰を作る森林と庭園から成り、芝生の刈りこ まれた広い庭園では数百頭の鹿が遊んでいる。 その場所はかつて、パクアンパジャジャラン王国が都を置いていた場所だったのではない かと推測されている。プリブミの王国が王宮を置いたほどの場所であれば、ヨーロッパ人 がその場所に魅力を感じたことの必然性が成り立つ可能性も高いだろう。ポルトガル人が 16世紀に作った地図には、現在のボゴールが位置する場所の辺りにパジャジャランの名 前が記されているそうだ。 ボゴール市はボゴール宮殿を中心にしてできた町と言うことができるのではないだろうか。 もしそれが当たっているのなら、ボゴールもジャカルタと同様にオランダ人が作った町と いうことになるかもしれない。他にもバンドン、スマランなどがそうではないかとわたし は想像している。現在ジャワ島の大都市とされている街の多くがオランダ人によって作ら れたような印象をわたしは受けるのだが、ジャカルタ以外の都市についてそんな話を書い ているイ_ア語記事は見つからない。 スンダと呼ばれるジャワ島西部地方を支配したパジャジャラン王国は932年に発足して 1579年に滅んだ。そのスンダのヒンドゥ王国が滅んだ経緯は、元々パジャジャランの 王統の流れを汲むチルボンの領主がイスラム化し、マジャパヒッ王国を倒してジャワ島中 部東部のイスラム化を推進しているドゥマッと提携してスンダ地方をイスラム化する司令 塔となったことに深く関わっている。 チルボンはパジャジャラン王国最大の商港バンテンを1527年に奪って属領にした。そ して、バンテンとチルボンからイスラム軍がパジャジャランへの攻撃を継続的に行ったた め、スンダ地方はあちこちがイスラム軍に征服され、パジャジャラン王国は滅びの道を転 げ落ちて行ったのである。 1551年にパクアンで王位に就いたニラケンドラ王の時代にバンテン領主マウラナ・ハ サヌディンと息子のマウラナ・ユスフの率いる侵攻軍が王都パクアンを襲った。パジャジ ャラン軍は最初、よくその攻勢を防いでいたものの、軍内部の要人が裏切ってマウラナ・ ユスフに通じたためにパジャジャラン軍が敗れた。ニラケンドラはパクアン王宮を捨てて パンデグランのプロサリ山に逃れ、そこに仮の王宮を設けた。 ニラケンドラは1567年に王位をラガ・ムリヤに譲り、パンデグランで即位したラガ・ ムリヤがバンテン軍に敗れてパジャジャラン王国は1579年に滅亡した。そういうデー タが書かれている一方で、パクアンの王都をバンテン軍が1579年に陥落させたと述べ ている記事がはなはだ多く、反対にニラケンドラ王の何年にパクアンが壊滅したのかをは っきりと述べている記事が見つからない。 それはともかくとして、1560年代から70年代にかけてのどこかでパクアンの都がバ ンテン軍に攻略され、殺戮と略奪が王都を覆い、王宮は破壊しつくされたのである。バン テンはパクアンを破壊した後、そこを放置して荒れるに任せた。統治管理のための行政官 も置かなければ警備のための軍兵を駐屯させることもしなかった。バンテンはその高原都 市の跡地を何かに利用する気をまったく持っていなかったように思われる。 ジャワ島でイスラム化が進展していたあの時代、イスラム王権はたいてい海岸の商港を本 拠地にしていた。ドゥマッ・チルボン・バンテン・グルシッ・スラバヤ、いや、ジャワ島 ばかりかスマトラでもパサイ・プルラッ・アチェ・パレンバン、さらにはバンジャルやマ カッサル、テルナーテやティドーレなど軒並み、通商貿易立国というあり方が国家経営の 基本方針をなしていたようだ。内陸高原部に国家の経営資源を回すようなことはかれらの 基本方針に反していたのかもしれない。 しかし王都パクアンの跡地が無人の境になったわけではけっしてなかった。そこには地元 民の集落ができて、カンプンバルと呼ばれていたそうだ。そんな失われた都をVOCが発 見した。[ 続く ]