「インドネシア大統領パレス(21)」(2024年10月24日)

ヨハネス・カンパウス第15代総督はVOC軍務社員ピーテル・スキピオ・ファン オー
ステンデ軍曹にバタヴィアの南部にある高原と山岳部の探検調査を命じた。後にパラヒヤ
ガンと呼ばれるようになる地方だ。

スキピオは1687年に小編成の部隊を率いて探査に出発した。この探検隊はまっすぐ南
下してボゴールに至り、崩壊した都市の廃墟を発見した。それがおよそ120年ほど前に
滅ぼされたパクアンの遺跡だったのである。その界隈を調べたかれらはまた、碑文が彫り
込まれた巨大な自然石を見つけた。現在バトゥトゥリス碑文と呼ばれているその石は今も
発見された場所にそのまま置かれているが、風雨を避けるための建物が作られて保護され
ている。

パクアンの廃墟を調査した探検隊はある場所で水路の跡や果樹が整然と植えられている様
子を目にし、そこにかつて町があり、たくさんの住民が住んでいたようだと推測した。さ
らに巨大な規模の豪壮な建物だったことを思わせる廃墟が見つかり、それがその町の宮殿
だったのではないかと考えた。その宮殿の廃墟は何頭ものトラの棲み処になっていて、カ
ンプンバルが昔の王都の中心部に位置していなかったことの理由をそこから推測すること
ができる。

トラの脅威はスキピオ探検隊にも無縁でなかった。1687年8月28日の夜、隊員のひ
とりがチサダネ川に近い場所でトラに襲撃された事件をスキピオは日誌に書いている。ス
キピオが総督宛に送った報告書には、複数の大きいトラがパジャジャラン王宮の廃墟を守
護していると地元民は信じている、と書かれていた。

一行はさらに南下を続けてグデ・パンラゴ山系とサラッ山の間の高地を抜け、それから南
西に折れて、インド洋の激しい波が洗うプラブハンラトゥの海岸に達した。ジャワ島南部
インド洋岸をはじめて訪れたヨーロッパ人がかれらだった。


パクアンに興味を抱いたVOC首脳は引き続いて調査隊を送り出した。アドルフ・ヴィン
クラ大尉に率いられた白人兵16名マカッサル兵26名の部隊が土地測量技師ひとりと共
に1690年、ボゴール高原に向かった。この調査隊はスキピオ探検隊の報告をベースに
して調査を行い、詳細な報告書を総督に提出した。

1709年10月30日に第18代総督に就任するアブラハム・ファン リーベークも上
級商務員時代の1703年と1704年に2度パクアンへの調査旅行を行い、総督就任後
の1709年にもパクアンに赴いている。 かれがたどったバタヴィア城市からパクアン
中心部に至るルートは三回とも異なっていた。1703年の旅には、妻を輿に乗せてパク
アンまで連れて行ったそうだ。

リーベーク総督は西ジャワの高原部にコーヒー栽培を行わせることに力を注いだ人物であ
り、自ら西ジャワの各地に足を運び、地元の統治者を説得してコーヒーを植えさせた。バ
ンドン北部のタンクバンプラフ火山に登った最初の白人がかれだったと言われている。そ
れは単なる物見遊山だったのでなくて、ヨーロッパに輸出できる硫黄を実検分するのが主
目的だったそうだ。[ 続く ]