「インドネシア大統領パレス(22)」(2024年10月25日) 1744年8月10日、VOC第27代総督グスタフ・ヴィレム・バロン ファン イムホ フがチアンジュルへの視察旅行を行った。一行はまずパクアンを目指した。そして総督は その土地の気候と風光をたいそう気に入り、そこに保養所を建てようと考えて、イギリス のオックスフォードから近いマルボロ公爵の居所であるブラインハイムパレスを模したデ ザインの別荘をその場所に建てるよう、1745年に部下に命じた。それが出来上がって から総督はその別荘をバイテンゾルフと呼んだのだが、その言葉はそのうちにそこにでき た町の地名になってしまった。 ファン イムホフ総督はジャワ島を植民地にする構想を抱いて、バタヴィア城市内で暮ら しているVOC社員たちを城壁の外で暮らすように導いた。もちろんそれ以前から城壁の 外で暮らすヨーロッパ人もたくさんいたから、決してファン イムホフがそれを始めたと いうことではない。 少なくともビッグボスが遠くの高原と山中に保養のための別荘を二つも持ち、バタヴィア 城市内のカスティルにある総督パレスをよく後にするような手本を示せば、部下たちも後 ろめたさを抱かないでそれに見倣うことができたのではあるまいか。 かれはバイテンゾルフ宮殿を建て、次の項で解説するチパナス宮殿を作り、チサルアに療 養所を設け、また海事アカデミーをバタヴィア城市内西カリブサルにある、今トコメラと 呼ばれている建物に開いた。 1740年に華人街騒乱が起こったとき、VOCに対して華人が随所で行った武力攻撃を 粉砕するためにアドリアン・ファルケニール第25代総督がVOC軍に対して断固たる軍 事攻撃を命じた際に、かれは上司である総督にその短慮を諫めたそうだ。 しかしファルケニールは自分の考えを押し通した。そしてジャワ島内に大きく広がった騒 乱を何年もかけて最終的に鎮圧したものの、VOC重役会の中に出てきた総督過失説のた めに残る生涯を棒に振ることになった。 ファン イムホフはバンテンスルタン国の内紛を利用してVOCが得るメリットをより大 きくしようとした。スルタン ザエナル・アリフィンが皇太子のときに娶った妻サリファ ・ファティマは王妃になったあと、この大国を自分が動かすという野望に目覚めた。サリ ファはVOCの後ろ盾を得ようとしてファン イムホフ総督に接近した。VOCにとって 願ったりの話が向こうから飛び込んできたのだ。 夫のスルタンを後ろから支えるどころか、国王をないがしろにして王妃がでしゃばるよう になったのだから、王家の親族一同は王妃を白い目で見た。なにしろ、この王妃はVOC に夫を捕らえて流刑するようにさせたほどの玉だったのだ。王妃自身はバンテンスルタン 家の血を引いておらず、バンテンで有力なアラブ系プラナカンの家系の娘だったのである。 王家の一族の中に血のつながった親類はひとりもおらず、すべてが義理の縁者でしかなか ったということになる。 バンテン王宮は王妃組と反王妃組に分裂した。反王妃組が武力で王妃を取り除こうとした ときVOCがその前に立ちふさがったから、反王妃組はVOCと戦争せざるを得なくなっ た。後世、キヤイ タパの叛乱と呼ばれている1750〜54年の戦争がそれだ。それは キヤイ タパとラトゥ バグス ブアンに率いられたバンテン民衆の反オランダ武力闘争と いう形をとることになった。[ 続く ]