「インドネシア大統領パレス(23)」(2024年10月28日) キヤイ タパという名前はまるでバンテン王家の外の人間のような印象を与えるが、かれ は純然たる王家の王子であり、その身体の中にアラブ系と中華系の血が混じっていた。通 常呼ばれる名前はトゥバグス・ムスタファ、中華名はチュン・シャント−と言った。イス ラム宗教師になったのでキヤイの称号が添えられ、タファがムラユ訛りでタパになったの である。 反乱軍はバイテンゾルフにも押し寄せてファン イムホフの宮殿を破壊した。そのできご とが1750年に起こったと書いている記事に従うなら、その時期には多分、ファン イ ムホフはチパナス宮殿のほうに入り浸っていたのではないだろうか。一方、宮殿が破壊さ れたのは1752年だと物語っている記事もあり、そのときファン イムホフは既に世を 去っている。 ファン イムホフを後継したヤコブ・モッスル第28代総督が破壊されたバイテンゾルフ 宮殿を再建した。モッスルはバンテンの騒乱に関して別の考え方をしていた。規模が拡大 し激しさも増したこの反乱を鎮めるには、叛乱の標的である王妃を押さえることがもっと も有効だ。VOCは突然態度を変えて王妃を逮捕し、アンボンのサパルア島に流刑するこ とにした。サリファはスリブ群島の中のエダム島に一旦留置されてサパルアへの船を待っ ているとき、そこで世を去った。 デンマーク人ヨハネス・ラッハの描いたバイテンゾルフ宮殿がある。ラッハはオランダで 画家として活躍していたが、アジア探訪の望みを抱いてVOCの軍務社員になり、176 2年に射撃兵としてバタヴィアに向かった。かれは兵士として高い評価を得るとともに、 画家としてもたいそうな評判を得た。 ラッハの描いた1780年のバイテンゾルフ宮殿の風景画は二つの大きい建物の間に設け られた小さい要塞が構図の中心に置かれている。ピリピナ要塞と呼ばれたその要塞にはバ イテンゾルフ宮殿守備隊が詰め、バンテンのイスラム軍から宮殿を守る任務を担っていた。 キヤイタパの叛乱が終わっても、バンテン兵の襲撃はいつまでも続いたようだ。 画面には見えないが、ふたつの建物の後方に宮殿付属の植物園や動物園があり、左側の建 物が総督とその家族の居所になっていた。 1808〜11年に第37代総督ヘルマン・ヴィレム・ダンデルスが元々一階だったバイ テンゾルフ宮殿主館を2階建てにし、その両翼を左右に延ばして拡張した。さらにインド とネパールの国境地帯に棲息する鹿6対をその庭園に放し飼いした。 ところが鹿を連れてきたのはダンデルスでなく、ジャワ島にイギリス時代を画したトマス ・スタンフォード・ラフルズだったと言う記事もある。確かにその時代、インドから鹿を 船に乗せてバイテンゾルフまで連れてくるのは、ダンデルスよりもラフルズの方が行いや すいポジションにいたことは確かだろう。ところがその記事にはラフルズがロンドンから ジャワに総督として赴任する途中にインドに立ち寄ってロード ミントーに鹿を送るよう に依頼したような話が書かれていて、記事の全体がガセなのかそれともガセは一部だけな のかが判断できないのである。 鹿をバイテンゾルフ宮殿に放し飼いするアイデアの主はいったいどちらだったのだろうか? ダンデルスが鹿を自分で連れて来なければならない必然性などどこにもないことを忘れて はなるまい。金を払って商人に敵国から鹿を持ってこさせればできる話なのだから。 [ 続く ]