「インドネシア大統領パレス(25)」(2024年10月30日)

ダンデルス総督がジャワに赴任してきたのは1808年のことで、世界中の要所要所で制
海権を握っているイギリスの目をかすめて1月1日にジャワ島西端のアニェルに上陸した。
ジャワ島北岸部の海上はイギリス軍船に封鎖されていて、バタヴィアと北岸諸港間の海上
交通すら思うに任せない状態になっていたのである。

1808年1月5日にかれはバタヴィアで総督に就任した。そして4月29日にジャワ島
視察の旅に出た。5月5日にスマランに到着した新総督は、そこでアニェル〜パナルカン
およそ1千キロのジャワ島大郵便道路の建設を命じる命令書を発出した。郵便道路という
名前はその道路が通過する都市間の文書連絡のスピードアップを意味している。同時にイ
ギリスのジャワ島侵攻が確実視されていた時期であり、軍隊の迅速な移動を実現させる目
的もあった。

ジャワ島陸上交通の大動脈はインドネシアが独立してからも半世紀以上にわたってこのオ
ランダ人が企画した道路だったのである。それは国道1号線になり、Jalur Pantura(ジ
ャワ島北岸ルート)とも呼ばれて、積載重量規則破りのトラックが行き交う不健康な動脈
路になっていた。しかし今では、動脈路はインドネシア人が作ったトランスジャワ自動車
専用道との二本立てになっている。


大郵便道路はバタヴィアからバイテンゾルフを経てバンドン、そして西ジャワの山岳地帯
にある諸都市を通過してからスマランに達するが、パントゥラはジャカルタからそのまま
北岸沿いにスマランに向かう。一方スマランから東端のパナルカンまではほとんど大郵便
道路と同一のルートになる。もちろんパントゥラはパナルカンの港の南側をかすめてシト
ゥボンドの町に入り、バニュワギを目指すのだが。

大郵便道路はスンダ海峡沿いのAnjer(現代綴りはAnyer)とマドゥラ島対岸の東端にある
港町Panaroecan(現代綴りPanarukan)をターミナルにしていた。ジャワ島から東にある
島々へ飛び石伝いに渡るのはそのころバリ海〜フローレス海の航路が使われ、パナルカン
港から出た船は必然的にバリ島のシガラジャやロンボッ島のアンペナンに寄港した。バリ
島南部地方の開発が始まるまで、バリ島最大の都会はシガラジャだったのだ。

いや、シガラジャが大都会だったというのは、バリ島にとっての話だけではなかったよう
だ。インドネシア独立時にバリ島からティモール島に至る地域は小スンダ州という名の地
方行政区域にまとめられ、その州都がシガラジャに置かれたのである。しかしこの小スン
ダ州は1958年にバリと東西ヌサトゥンガラの3州に分割された。それでも最初バリ州
の州都はシガラジャのままで、1960年6月23日にデンパサルに州都を移すことが決
定されている。


大郵便道路が西ジャワの内陸部を通ったのは、その時期に西ジャワ山岳部の諸都市がオラ
ンダ東インドにとって重要な支配地になっていたためだ。現代インドネシアの国道1号線
がジャカルタからスバン〜チルボンを通ってスマランに達するのは、ダンデルスの大郵便
道路と違うコンセプトで設定されているのが原因になっている。

ダンデルスの赴任から4か月後に開始されたジャワ島動脈路の建設は一年間で完成した。
かれがその間、バイテンゾルフ宮殿を居所にしたのは、道路建設の指揮を執るのにその方
が便利だったからだろう。なにしろそのころ、バタヴィアのレイスヴェイク宮殿とバイテ
ンゾルフ間の馬での旅は二日がかりだったのである。ましてや雨季ともなればそれ以上の
日数が費やされた。だからその途中に宿泊駅が設けられて、食事と就寝、そして馬の休息
あるいは交換の用がそこで足せるようになっていた。ダンデルス総督は32頭立ての馬車
でその間を往復した。宮殿の拡張工事はそんな状況がもたらした必然性の賜物だったにち
がいあるまい。[ 続く ]