「インドネシア大統領パレス(26)」(2024年10月31日) イギリスから返還されたジャワ島の最初のオランダ東インド総督になった第42代ファン デル カペレン総督のとき、宮殿主館の中央部に塔が建てられた。しかし1834年10 月10日に起こった地震によって宮殿がはなはだしく損傷したため、修復工事が行われた。 1850年、第51代総督ダイマー・ファン・トゥイスツが宮殿主館の建て替えを行い、 左右に両翼が広がっていた昔のデザインから19世紀のヨーロッパ建築様式のものに作り 替えられた。両翼は本館から切り離されて別館にされ、本館との間を橋で連絡するように 作られたものの、後になって橋の代わりに通廊に変更された。この新デザインの宮殿が完 成したのは第52代シャルル・フェルディナン・パユ総督の時だった。 1870年に東インド政庁はこのバイテンゾルフ宮殿を総督の公式住居に指定した。 インドネシア共和国独立宣言のあと、地元青年層がBarisan Keamanan Rakyatを編成し、 およそ2百人の団員が日本軍を追い出してバイテンゾルフ宮殿を占拠した。しかしAFNEI 軍がジャカルタを制圧してからボゴールの捕虜収容所の解放にやってきたとき、地元青年 たちはグルカ兵に宮殿から追い払われている。 1949年のハーグ円卓会議の結果NICA政権はインドネシアを去ることになり、ボゴ ール宮殿はインドネシア共和国政府に移譲された。インドネシア政府宮殿官房がボゴール 宮殿に入ったのは1950年で、オランダ時代に宮殿内部を埋めていたさまざまな家具や 装飾品の多くがAFNEI軍や日本軍に持ち去られていたそうだ。残されていたのは一対の大 きな姿見くらいだったとボゴール宮殿官房職員のひとりは語っている。 スカルノ大統領は芸術性の高い優れたアンチーク家具類や絵画彫刻あるいは水瓶などで宮 殿内を満たした。スカルノ時代に諸外国の元首や首長がプレゼントしたその国一流の芸術 家の作品も混じっている。 そのころスカルノは賓客との面会や公式行事がないとき、よく裸足で宮殿内を端から端ま で歩いたそうだ。家具類に軽く触れながら、目は壁の絵画や台座の上の装飾品を見ていた。 裸足になったのは床の埃を調べるためであり、家具類の状態は手の指を使い、そして目は 空間内のあちこちの位置から見える装飾品の視覚効果がどうなのかを調べるためだった。 スカルノは自分の芸術感覚に沿って宮殿を美しく清潔な場所にするよう注意を払っていた のである。ボゴール宮殿の中に現在置かれているものの9割がスカルノ時代に持ち込まれ た品物だという話だ。大統領個室にはスカルノが読んだ書籍類がたくさん残されていて、 スカルノ自身が書き込んだメモや文中に付けたマークが今もそこに残っている。 1952年には、主館の表玄関に元から作られていた6本のイオニア様式の円柱に支えら れたポーチが更に10本の同じ様式の柱に支えられて拡張され、玄関ファサードが荘厳さ を増した。玄関口の半円形をしていた階段はそのとき直線形に変更されている。 スカルノは52歳のときに娶った第二妻のハルティ二をボゴール宮殿に住まわせた。ハル ティ二の居所として1954年にパヴィリオンアマルタが建てられた。パヴィリオンアマ ルタはスカルノがボゴール宮殿内に建てさせた5つの館のひとつで、宮殿主館の裏に隣接 している。 ボゴール宮殿は何度も歴史的出来事の舞台になった。1954年12月28〜29日にそ こで第二回5カ国会議が開かれている。この会議は元々インド・セイロン・ビルマ・パキ スタンの旧イギリス植民地四カ国が独立後の未来のビジョンを探るために話し合いを持と うとして企画され、第一回会議は1954年4〜5月にコロンボで開催された。 最初は旧イギリス領、というよりブリティッシュコモンウエルスとして結びついていた四 カ国が、東と西の両ブロックに属さない第三勢力をアジアとアフリカの諸国が築くという スカルノの構想に感銘を受けて、インドネシアを加えた5カ国会議として開催したという のがその経緯だ。そしてこの会議が1955年4月にバンドンで開催されたアジアアフリ カ会議につながって行ったのである。[ 続く ]