「インドネシア大統領パレス(28)」(2024年11月04日) 西イリアン海域では緊張が続いたが、たいした戦闘は起こらなかった。しかし西陣営のリ ーダーである米国はまったく心穏やかでなかった。東南アジアで巨大な領域を占め、他の 諸国に対する影響力も小さくないインドネシアがどっぷりと東陣営に浸かってしまうと西 陣営の地域戦略に大きい支障が出るのは確実だ。おまけに国連の中でも第三ブロックの声 が高まり始めたのである。 最終的にオランダは西イリアンを捨てるように陣営のトップから強いられた。スカルノの アクロバットが大成功を収めた舞台がそれだった。しかし跳ねっ返りのスカルノをいつま でも捨てておく西側陣営でもなかった。黒い謀略がスカルノの運命を変えた。 1965年9月30日にジャカルタでG30Sクーデター事件が発生した。クーデターそ のものは短期間に鎮圧されたが、共産主義者が操ったクーデターという解釈が強まったた めに赤狩りの不法行動が全国的に拡大して国内の混乱が容易に収拾されない。国民生活は 戦々恐々たるものになった。国内の治安と秩序を回復できるのは軍部しかなかった。軍部 を統率したことのないスカルノ大統領にできることではなかったのだ。 スカルノは国軍随一の実力者になったスハルト少将にそれを命じた。ある程度政治的な判 断を行う許可をスハルトに与えなければならない。その目的のためにスカルノはスハルト に大統領命令書を与えざるを得なかった。 1966年3月11日、スカルノ大統領は百大臣内閣閣議を国家宮殿で終えてからボゴー ル宮殿のパヴィリオンアマルタに向かった。その日夕方、三人の陸軍高官がボゴール宮殿 を訪れ、パヴィリオンアマルタの広間に入った。バスキ・ラッマッ少将、Mユスフ准将、 アミルマッムッ准将の三人がスハルト少将のメッセージを大統領に届けに来たのだ。 午睡を終えて三人に対面したスカルノにスハルトのメッセージが語られた。大統領の身柄 ・国是パンチャシラ・1945年憲法・国家と民族の安全を保障するためにその実行の命 令を軍に与えてほしいと言うのである。「どのようにして行うのかね?」とスカルノが尋 ねるとバスキが「パッハルトに命じるだけでいいですよ。」と答えた。そして命令書の文 面の腹案を持っているとバスキは言う。 マグリブの礼拝を終えたあと、スバンドリオ、ハエルル・サレ、Jレイメナの三人の副首 相とハルティ二を交えて、三人の将軍と共にスカルノは命令書作成の作業に取り掛かった。 スカルノは仕上がった原稿を何度も読み返し、適切でない言葉にまた線を引き、この作業 自体に不服を抱いている様子を明らかに示した。スカルノはその間、何度もため息をつき、 額にしわを寄せ、自分がしていることを自分自身が承服できない様子をしていたとハルテ ィ二は後に語っている。 清書された命令書が目の前に置かれたとき、スカルノは礼拝すると言って座をはずした。 そしてその夜、そこで命令書作りに関わった7人の証人の前で、スカルノは自分の将来を 滅ぼすことになるスプルスマル(3月11日大統領命令書)にサインしたのである。 スカルノはスハルトに対していくつかの命令を与えた。その中に、スカルノ大統領の安全 と権威を保ちながら治安・平静・安定を確保するための行動を執るようにという一項が記 されていた。 スプルスマルは国立公文書館に3通が保存されているものの、それぞれの文面が異なって いるそうだ。そのこと自体が既に疑惑を感じさせるものになるだろう。文面がどうあれ、 スハルトはそれを根拠にして大統領代行の地位に就いた。スカルノがその命令書によって 大統領の職務を自分に移譲したのだというのがスハルトのロジックだった。紙に書かれた 文字が示す意味よりも、パワーを持つ人間の意志が世の中を動かしていくのだという人間 世界の実相を明白に示す例のひとつがこのスプルスマルだったのではあるまいか。 [ 続く ]