「インドネシア大統領パレス(29)」(2024年11月05日) 内容がどうであったにせよレジームの交代が現実に起こったのであり、スプルスマルがそ の変化を象徴するシンボルであったことを多くのインドネシア人歴史家が認めている。東 西陣営を綱渡りしていたアブナイ男、スカルノは権力の座を奪われ、インドネシアから東 陣営に関わる一切を大掃除したスハルト将軍がインドネシアの「自由化」を推進すること になるのである。 1966年3月11日も、共産党を敵視する学生のデモがボゴール宮殿目指して行われて いた。断食中の学生たちが雨の町ボゴールでしばしば襲って来る驟雨に濡れながら、ボゴ ール宮殿の前で「PKI(インドネシア共産党)を解散せよ」というシュプレヒコールを 上げていたことを、当時の学生活動家だったソフィアン・ワナンディが書いている。PK I解散・諸物価値下げ・内閣改造が学生の掲げる要求だった。 その年の2月10日にスカルノは学生運動の中核を担う若者たち10人をボゴール宮殿に 招き、宮殿主館中央の広間で会見した。その時インドネシア学生行動ユニット指導部委員 長だったソフィアン・ワナンディもそこに招かれたひとりだった。 学生運動は軍部の動きと歩を合わせて全国のPKI組織を粉砕して行った。軍部の動きは スプルスマルによって国政トップが指示したものという位置付けを得ていたのだから、多 くの国民にとってその行動は正義と見なされたことだろう。そして軍部の政治的動きがほ ぼ完了したころ、スカルノが国家首長の座から転落した。 1967年3月12日13時31分、暫定国民評議会第8回特別総会がスカルノを大統領 職から罷免する決議を採択した。評議会議長はアブドゥル・ハリス・ナスティオン将軍で あり、評議会も軍部に動かされていた。国民評議会がスハルトを大統領に指名したのは3 月27日の第5回一般議会においてであり、その日22時15分に大統領指名決議が成立 した。 第二代大統領になったスハルトもボゴール宮殿を歴史的なできごとの舞台に使った。19 88年7月25〜30日にアセアン各国代表を集めて開催されたカンボジャの内戦調停の ための会議、ボゴール宣言を採択した1994年11月15日のAPEC会議。 レフォルマシ時代に入ってもしばしば閣議がボゴール宮殿で開かれた。スシロ・バンバン ・ユドヨノ大統領時代の2006年11月20日、インドネシアを訪問したブッシュ米国 大統領がボゴール宮殿に招かれた。米国から運んできた完全防弾装備のSUVで宮殿表に 到着したブッシュ大統領が車から飛び降りると、急ぎ足で会談を登り、出迎えているユド ヨノ大統領としっかり握手した姿が多くのインドネシア国民の目に焼き付けられた。 ジョコ・ウィドド大統領の時は国賓を迎える迎賓館としてボゴール宮殿が使われた。20 17年にボゴール宮殿を訪れた国賓はニッポンのシンゾー・アベ首相、サウディアラビア 国王サルマン ビン アブドゥラジズ アル サウディ、スエーデン国王カール16世グスタ フ、米国第44代大統領バラック・オバマなどのお歴々だった。 ジョコウィはオバマを誘ってボゴール植物園内の緑を愉しみながらグランドガーデンレス トランで賓客の好物であるバッソを振舞った。[ 続く ]