「謝罪されない植民地化(1)」(2024年11月05日) 2023年にヨーロッパ諸国の中の数カ国が、かつて自分の植民地であったアジアやアフ リカの国に対して謝罪を表明することが起こった。ただし謝罪の内容は、植民地支配者と して行った原住民に対する殺戮や奴隷売買などの反ヒューマニズム行為についての謝罪で あり、その国と民族を植民地化したことに対する謝罪ではないことを誤解してはならない だろう。 わたしが調べたかぎりでは、植民地宗主国だったヨーロッパの国がかつてその植民地にさ れていたアジアやアフリカの国に対して、植民地にしたこと自体を謝罪した例は一度もな いように思われる。過去に行われている謝罪の記事を読むと、植民地支配者が行った反人 道的な行為に対する謝罪ばかりが見つかるのである。もちろんそこには賠償金という言葉 も伴われている。 武力を使って人間が人間を支配した上、支配者が支配下の異民族の土地にあるものを収奪 する行為を行うことについて、それは西洋ヒューマニズムにおいて悪事とされていないの ではないかという不審をわれわれはその事実から抱いてしまいそうになる。ところが昨今、 武力を使って他国を支配下に置こうとする動きが起こると、西洋諸国は異口同音にその行 為を悪として非難するのが今では国際常識になっている。 考えてみれば確かに、国際政治舞台上での謝罪表明という行為そのものは物質的な何物を も生まないように思われる。謝罪という行為は相手の赦しを得て和解し関係を修復するこ とと理解されていて、それはあくまでも心や気持ちの問題になっている印象を受ける。謝 罪が賠償の扉になることは確かだが、それは原因と帰結という異なるものと捉えるべきだ ろう。謝罪の定義の中に賠償は含まれていないのだから。 現代国際社会の中で一国が相手の謝罪を求めて国交を断絶し続けるような愚行を行う国が あるだろうか。過去に植民地と宗主国の関係になった二国間でそんなことをしている国の 組み合わせがひとつでも現存しているだろうか。過去の歴史を変えることはできないので あり、そんな諍いをするよりも経済や文化の協力関係を強めていくほうがよほど有意義で あることは誰にも否定できない真理であるようにも思える。 植民地化という行為に対する謝罪表明は賠償請求や逆支配あるいは逆搾取への入り口にし かならないという見方にも一理あるのではないだろうか。植民地化して得たすべての利益 を賠償せよと要求されたなら、宗主国の多くは破産するかもしれない。だから賠償などで きるはずがない。 謝罪はするが賠償はできないと言うのであれば、謝罪などしないほうがものごとを紛糾さ せない良策になるという考えも納得できるように思われる。理非なしに謝罪さえしていれ ば社会生活がすべて円滑に回転するという国もこの世に見られるとはいえ、それはきわめ て特異な社会だろうという気がする。そんな社会にかぎって、謝罪し非を認めている者に 賠償を強要すると人間性を疑われるような価値観ができあがっていて、謝罪はするが賠償 しないことを正当化しているのではないだろうか。 そういう後ろ向きのあり方で金を搾取しようとするのでなく、経済協力や文化交流に金を 使って債権を持つ国にメリットを与えるようにするのがはるかに健全な精神性を育むこと になるようにも思われる。ただまあ、ヨーロッパ諸国がそう考えているのかどうかは、わ たしにコメントできるところではないのだが。[ 続く ]