「謝罪されない植民地化(2)」(2024年11月06日)

インドネシアを植民地化したオランダも国王ヴィレム・アレクサンダーが2020年3月
にインドネシア国民に向けて謝罪表明を行ったが、その内容は1945〜1949年に行
われたオランダの軍事行動の中でオランダが行った殺戮行為を謝罪し、処刑されたインド
ネシア人の子孫に賠償金を払う用意があるという表明だけだった。

ヌサンタラの地にあった富を何世紀にもわたって吸い上げ、インドネシア民族を貧困と愚
昧の中に沈めてきたオランダも、植民地にしたことそれ自体を謝罪する気はないように見
える。奪われたヌサンタラの富をすべてインドネシアに返すことになれば、オランダの全
国家資産と土地がインドネシアのものになるかもしれないと言えば言い過ぎだろうか?


植民地主義が白人の世界で一世を風靡した時代に白人が培った自尊心はかれらにとって何
物にも替えがたいものになったようだ。肌の色が人間の優秀性を決め、優秀な民族は劣る
民族を支配する権利を持つというモットーが作られて、現代ヒューマニズムで否定されて
いる「人間による人間の支配」が正当化された。

その観念はいまだに白人社会の中に生き永らえていて、バリ島に遊びに来た白人の若者が
横暴で傍若無人な振舞いをインドネシアの国と民衆に示している姿は日常のものになって
いる。そんなシーンを目にする機会に遭遇すると、「お前は自分の生まれ故郷でもそうい
う振舞いをしていたのか?」という言葉がわたしの胸に浮かんでくる。

バリ島で暮らしているインドネシア人に向けて尊敬の念を態度の中に示す白人の姿は、わ
たしの目に映ったケースに限って言えば、たいてい中の上から高年齢の者に限られている。
若者にその種の美徳を教育できなくなったありさまは、ひょっとして白人社会だけでない
のではあるまいか。アジアの果てでも同じようになっていないだろうか。ひょっとすれば、
それは人類にとってのユニバーサルな現象なのかもしれない。人類はどこへ行こうとして
いるのだろうか?


有色人種に対する白人の人種侮蔑ビヘイビアは、アジア人がヨーロッパを訪れれば体験す
ることができる。日本語でそれは人種差別という術語で呼ばれているのだが、そんな生易
しい言葉よりもはるかに人種侮蔑の様相を呈しているようにわたしには感じられるため、
わたしは人種差別という言葉を普遍的に使いたくない。

シドニーでフライトを変更するために航空会社のカウンターへ行ったときに、列の先頭ま
で来たわたしを無視してカウンターの係員がわたしのすぐ後ろにいるオーストラリア人を
手招きしたケース、アムステルダム空港内の両替屋で両替し、大きい額面の紙幣ばかりく
れたからその一枚を崩してもらえないかと丁重に頼んだところ、わたしの娘くらいの若い
女が声も荒々しくわたしに怒鳴りつけてきたケースなど、わたしを侮蔑した白人たちの実
例は枚挙にいとまがない。

国際外交の舞台からそんな姿は完全に消えているから、その種のニュースにだけ触れて白
人社会が人種侮蔑から脱皮していると思うのは世界知らずというものだろう。国民の中か
らその侮蔑思想が完全に消滅していないことを知っているヨーロッパ諸国の国家首脳には
有色人種を植民地化した歴史を取り上げて謝罪することなどできないはずだ。それはかれ
らの政治生命にかかわる問題になるのが疑えないからである。ヨーロッパの諸国はまず国
民のその種の感情を、かれらが作ったヒューマニズム原理に沿うように指導していかなけ
ればなるまい。植民地化への謝罪はそれが実現した上で検討することになるのではあるま
いか。[ 続く ]