「インドネシア大統領パレス(31)」(2024年11月07日) 1742年にこの保養所の工事が始められて、4年後に完成した。木工技術と芸術性に優 れているトゥガルとバニュマスの大工や木工職人がその工事のためにたくさん送り込まれ た。トゥガルの大工たちは女性の按摩師を一緒に連れてきた。長期に家を離れなければな らない大工職人たちは昔から頻繁に妻子を現場に呼ぶ習慣を持っていた。だから職人たち の宿舎に女性が混じっているのは普通のことだった。 大工仕事をしている夫の傍らで妻がその手伝いをするようなシーンも昔から起こっていた ことだろう。建設現場に女性の姿が混じるのを嫌うミソジニー文化が存在する一方で、イ ンドネシアでは今現在でも肉体労働をする女性たちが工事現場に混じるのは普通の習慣に なっているように見える。インドネシア人は性差別意識の薄い国民なのだ。 ファン イムホフ総督は工事の進捗状況を見るために、折に触れてバタヴィアからチパナ スにやってきた。保養を兼ねていたのは間違いあるまい。ある夜、取り巻きの者たちが総 督にマッサージを勧めた。お湯に浸かったあとで女性の手によるマッサージを受けるのは 極楽の思いがする。そしてファン イムホフ総督は極楽へと昇天したのである。 元々、ファン イムホフ総督はアジア人への偏見が薄い人物だった。多分、肌の色や外見 的な特徴とは関係なしに、善良な資質を持つ人間を純粋に評価できる性格をしていたのだ ろう。トゥガルから来た女性按摩師はファン イムホフの好みのタイプの女性だった。挙 句の果てにかの女はイムホフの子供を三人産んだ。 最初の子供をはらんだとき、総督はすぐにかの女に洗礼を受けさせてヘレナ・ピーテルス という名前を与え、プロテスタント教徒にした。総督はかの女を妻にしなかったものの、 かれはチパナス保養所にしきりに通ってヘレナに子供を三人産ませたということになる。 総督は在任中にそのチパナス保養所で二か月間病に伏した後、1750年11月1日に没 した。イムホフのヘレナへの愛情がそこから窺えるような気がする。遺体はバタヴィア城 市外のタナアバンに作られたVOC高官用墓地に葬られた。 保養所のデザインはファン イムホフの意向が多量に反映されている。床から屋根まで建 物全般はチーク材で構成され、鉄の鋳物が建造物の補強と装飾のために使われているばか りだった。後になって補修や改造のために石や日干しレンガが使われるようになり、総木 造高床式建造物の印象は影を薄くしてしまった。 たとえそうであっても、現在のチパナス宮殿を訪れればヨーロッパの避暑地ヴィラが持っ ている建築様式が印象深く立ち上ってくる。もちろんそこにスンダ文化のニュアンスが混 じって感じられるのは当然のことだ。 イギリス時代にトマス・スタンフォード・ラフルズ総督がリンゴ・花・野菜の栽培と牛と 鶏の飼育および米の脱穀をチパナス保養所で行わせた。数百人の現地人がその作業に動員 され、保養所主館の周囲に建てられたバラックで寝食した。そこで作られた農畜産物がバ イテンゾルフとバタヴィアに送られて行政高官たちの食生活を豊かにした。 ラフルズのこのアイデアはダンデルスが総督時代にバタヴィアの郊外部で実施した方針を 受け継いだものだった。 ファン イムホフ総督が没した後、この保養所はVOC高官のための公式施設という位置 付けにされなかったようだ。そのために、歴代の総督がみんなそこを訪れて温泉に浸かっ たり、あるいはそこに住もうとしたわけではない。 そもそもこの宮殿はバイテンゾルフやバタヴィアとバンドン間を往復する際に旅の途中で 立ち寄る休憩所として好都合な場所にあったために、その間を旅する高官たちにとっては たいへんありがたいものになっていた。しかしプンチャッ峠越えの旅は急坂が多く、馬車 では何かとトラブルが起こりがちだったその当時、このルートにかぎっては総督も騎馬で 旅するほうが常識的だったのである。18世紀半ばから19世紀半ばごろまでのおよそ百 年間、騎乗でプンチャッ峠を上り下りするのがへっちゃらな東インド総督閣下がどれほど いただろうか。[ 続く ]