「インドネシア大統領パレス(32)」(2024年11月08日)

しかしバンドンへ首都を移す構想が盛り上がったときには、オランダ東インド政庁第68
代総督アンドリース・コルネリス・ディルク デ フラーフ(任期1926−1931)、
第69代総督ボニファシウス・コルネリス デ ヨンガ(任期1931−1936)、第7
0代総督チャルダ・ファン シュタルケンボルフ シュタホウヴェル(任期1936−19
42)たちが連続してチパナス宮殿に居住した。シュタルケンボルフ シュタホウヴェル
総督が残した燭台とキャビネットが今も宮殿内に置かれている。

日本軍政期にはジャカルタとバンドンを往復する高官たちが立ち寄る休憩所として使われ、
温泉に浸かるのを好む日本人の高級軍人や軍政高官たちが高原の温泉を心ゆくまで楽しん
でいたそうだ。


スカルノ大統領はチパナス宮殿をよく利用した。特に8月17日の独立記念日に行う演説
の原稿を作るためにかれはチパナス宮殿にやってきた。スカルノは1954年に、敷地内
の丘の上に小さいスタジオを作らせている。そこは朝の陽光に照らされたグデ山がはっき
りと見える場所であり、たいていしばらく後に霧が山影を隠してしまうのだそうだ。スカ
ルノはそこで演説原稿の構想を練った。

この建物のデザインを大統領は建築家のスダルソノとシラバンに命じ、素朴で小さい建物
が作られた。建築資材に川石を使い、その出張った妙を壁や建物外部の床などに特徴とし
て持たせたために、Gedung Bentolというあだ名が付けられた。ベントルというのは人間
の肌にできる斑点のことで、たとえば虫に刺されて赤い大きな斑点ができるとそれをイン
ドネシア人はベントルブサルと呼ぶ。

このベントル館の屋内には書き物机と椅子、低いテーブルとタンス、横になれる縁台など
があるだけだ。タンスの中にはスカルノが寒さをしのぐために使っていたジャケットがい
まだに残されている。

主館に泊まったスカルノが早朝にベントル館にやってくると、職員がコーヒー・茶・水を
各一杯、つまみの茹でバナナや茹でピーナツあるいは茹でたシンコンなどを用意して室内
に置く。スカルノはいつもそのスタジオにこもって執筆を続けるだけで、職員に何かを依
頼することはめったにない。執筆の興が乗ると、昼食をベントル館に届けさせてくれと職
員に頼むこともあった。

スカルノがチパナス宮殿に泊まると、しばしば街道沿いにあるチパナス市場を訪れて民衆
の声を聞いた。そこで耳にした民衆の思いをスカルノは演説原稿の中に浸透させたのだろ
う。スカルノが民衆の代弁者と呼ばれた秘密がそれだったのではあるまいか。

スカルノは起伏の多いチパナス宮殿の地形を好み、散歩したり走ったり、乗馬したりして
宮殿内を巡った。スカルノ時代の1965年12月13日にはここで閣議が開かれ、1千
ルピアを1ルピアにする決定が採択されている。


スハルト時代には、宮殿内の建物に家具調度品が追加された。スハルト大統領もハビビ大
統領もほんの時々しかチパナス宮殿に宿泊しなかったのに反して、歴代の副大統領が家族
連れで休日を愉しみにやってくることの方が多かった。イドゥルフィトリの連休や年越し
の夜に副大統領の一家が親戚を集めてチパナス宮殿に泊まりに来ることはしばしば行われ
ている。

メガワティ大統領はしばしばチパナス宮殿に泊まった。そして自分の趣味である果樹の植
樹をチパナスでよく行った。チパナス宮殿は国賓のための迎賓館および宿泊所の機能を持
っていないが、1971年にオランダのユリアナ女王がここに宿泊している。

1983年に政府がまたふたつのパヴィリオンを増設した結果、22の建物群がチパナス
宮殿を構成することになった。その中には事務所、モスク、職員官舎、診療所なども含ま
れている。今のチパナス宮殿には、温泉の源に近い場所に温泉浴場が作られていて、大統
領と副大統領専用の浴室と、別棟の長い高官用浴室に分けられている。[ 続く ]