「インドネシア大統領パレス(33)」(2024年11月11日)

5.ジョクジャ宮殿 Istana Yogyakarta
ヨグヤカルタ市内中心部のヨグヤカルタスルタンが住んでいる王宮から6百メートルくら
い北側にジョクジャ大統領宮殿がある。そのふたつの統治権力をシンボライズする館群の
間には王宮前のアルナルン(広場)があり、その北側をアッマッダッラン通りとパヌンバ
ハンセノパティ通りが東西方向に走っている。そのふたつの通りの名称が交代する場所に
突き当たってくる、もっと北のマリオボロ地区から南下してくるマルゴムリヨ通りの南詰
め西側に位置している豪壮な建物群がジョクジャ大統領宮殿だ。

この一帯には歴史を物語る遺跡があふれている。マルゴムリヨ通りをはさんで大統領宮殿
の向いにはVOCが建てたフレデブルフ要塞があり、またアッマッダッラン通りをはさん
で大統領宮殿の南側はカウマン地区になっている。アラブ語源のカウマンという言葉はア
ラブ人の庶民が自らを指して使った言葉であり、インドネシアで篤信ムスリム居住地区を
意味する言葉になった。このジョクジャのカウマン地区で1912年にアッマッ・ダッラ
ンがムハマディヤ組織を発足させたのである。

ムハマディヤがインドネシア共和国の独立を支援するために武器を手にしてNICAに立
ち向かった。1947年7月21日に開始された第一次軍事攻勢(NICAは警察行動と
それを呼んだ)を目の当たりにしてムハマディヤのウラマたちは戦闘部隊を持つことを決
め、スロナタン部落にあるタクワモスクを部隊の本営にした。スロナタンはカウマンから
1キロほど離れている。ムハマディヤのウラマと青年たちがそこで反オランダ軍事行動の
作戦を練った。

ムハマディヤ戦闘部隊はサビル部隊と名付けられ、サビル部隊創設の報告がスルタンとス
ディルマン国軍総司令官に届けられると、部隊員の戦闘訓練のために国軍から指導官が派
遣された。

NICAの第二次軍事攻勢が起こったとき、サビル部隊は国軍とラスカルラヤッを支援し
て共に戦線に加わり、反オランダ戦闘の舞台にのぼった。その結果、サビル部隊から戦死
者が5人出た。ムスリム庶民がオランダに歯向かったことをNICA軍は重視した。サビ
ル部隊を叩き潰してムスリム庶民から追従者が出ることを防がなければならない。

NICA軍がタクワモスクに襲い掛かったため、サビル部隊は本営をカランカジェンに移
した。するとNICA軍は執拗にサビル部隊を追ってきたので、本営はもっと僻地のブロ
ソッに移された。

NICAがバントゥル地方を占領したことからサビル部隊がバントゥルの占領軍への攻撃
を続けた結果、最終的にNICA軍はバントゥル地方から去った。1949年1月8日に
国軍が行ったヨグヤ占領軍への攻撃にも、サビル部隊が参加している。


大統領宮殿から1.5キロほど東方にパクアラマン王宮があり、ディパティ パクアラム
王家がそこで暮らしている。ヨグヤカルタのスルタンとディパティの両王家はインドネシ
ア独立宣言以来、共和国を支持する王国統治者の代表格として国政に参与してきた。

その功績を大きく評価してインドネシア共和国はヨグヤスルタン国を共和国の特別州にし、
州知事はスルタン家の世襲、副知事はディパティ家の世襲という不思議な形態が作られた
のである。

ヨグヤカルタスルタンの王宮は普通、Keratonと呼ばれている。スルタンのイスタナとい
う表現をしても意味は通るものの、イスタナと呼べる建物はあちこちにあるため、ジョク
ジャのひとびとはクラトン、グドゥンアグン、そしてパクアラマン王宮をプラと呼んで明
瞭に区別している。[ 続く ]