「インドネシア大統領パレス(34)」(2024年11月12日)

インドネシア共和国大統領が最初に使ったこの宮殿は、オランダ東インド政庁がヨグヤカ
ルタスルタン国に駐在させた第18代レシデンのアントニ・ヘンドリクス・スミサートの
立案で1824年5月に建設が開始されたイスタナだ。かれはオランダ王国の威厳をスル
タン国の中に轟かせるための規模と荘厳さを備えた建物が必要だと考え、4.4万平米の
敷地に豪壮な六つの建物群を並べてオランダ東インド政庁の代表部をそこに設けた。デザ
インは建築家パヤンの手になった。

そのように表現すると、ヨグヤカルタスルタン国は独立国家であり、オランダ東インド政
庁が大使を派遣してスルタン国の内政外交を助言していたような印象を受けることになる
わけだが、外面的にそんな形態を示しながら、オランダはヨグヤカルタスルタン国を実質
的に牛耳っていた。1827年12月、東インド政庁は植民地統治方針の中でヨグヤカル
タスルタン国をレシデン統治区から州に格上げし、レシデンをフフェルヌルに変えた。フ
フェルヌルとは英語で言うガヴァナーのことだ。

しかしそんなことはスルタン国の王宮と領民にとって何の違いをもたらすものでもなかっ
た。自分を支配する役職がかれらの組織の中で格上げされたというだけのことだったのだ
から。

つまりオランダ人はヨグヤカルタスルタン国の真の支配者の威厳を示すための宮殿をそこ
に作ったというのが赤裸々な表現になるだろう。しかしヨグヤカルタスルタン国の内政は
昔通りの形式で続けられ、領民は自分たちがオランダ人の支配下に置かれていることをそ
れほど実感していなかった。領民の多くはクラトンの政策におかしな点があると、オラン
ダ人がクラトン上層部に横車を押した結果だという印象を持つのが普通だったようだ。そ
の二重構造がディポヌゴロ戦争の長期化に影響を及ぼした可能性を推測できるような気が
わたしにはする。

それはともかくとして、1825年にディポヌゴロ戦争がはじまったために、建物の建設
工事が続けられなくなった。1830年に戦争が終わって工事が再開され、知事閣下の宮
殿は1832年にやっと完成の日を迎えた。ところが1867年に大地震がヨグヤカルタ
地方を襲い、ヨグヤカルタ知事公邸も崩れ落ちたのである。再建工事が完成したのは18
69年で、われわれは現在、その再建後の姿を見ていることになる。

その年以降の歴代フフェルヌルはその建物に住んで執務し、1942年からは日本軍ジャ
ワ軍政監部の派遣するジョクジャカルタ候地事務局長がそこに入ったのではないかと想像
するのが普通なのだろうが、1946年にスカルノが家族とともにこの建物に入ったとき、
建物のありさまは一国の大統領一家が住むような状態でなかったことを官邸執事や職員た
ちが物語っていて、まるで長期にわたって空き家になっていたような印象を受けるのであ
る。


AFNEI軍にバックアップされたNICAがジャカルタを武力でほぼその支配下に置いたと
き、インドネシア共和国政府首脳は最大の危機に直面した。オランダが首脳陣を一斉逮捕
すれば共和国は崩壊するだろう。ヨグヤカルタに共和国の首都を移す考えを抱いた正副大
統領はひそかに仕立てた列車で深夜の隠密旅行に出た。ジャカルタを捨ててヨグヤカルタ
に移るのである。

共和国政府が立てたその構想が一方的にヨグヤスルタン国をさておいて実行に移されたわ
けでは決してない。オランダがジョクジャとソロの王国をあたかも独立国のように待遇し
てきたように、日本軍政もそれに倣った。それと軌を一にしてジョクジャとソロの王宮も
独立国然としてふるまっていたのだから、インドネシア人の目にそんな姿がどう映ってい
たのかは言を俟たないだろう。[ 続く ]