「インドネシア大統領パレス(35)」(2024年11月13日) 1945年8月17日にジャカルタで独立宣言が行われたことを知ったスルタン ハムンク ブウォノ9世はパクアラム8世と連名で共和国政府に祝電を送り、ヨグヤカルタスルタン 国が共和国の地方行政区になることを表明した。その時にヨグヤスルタン国とインドネシ ア共和国の蜜月関係が始まったのである。日本軍政統治機構の中で地方行政区の長官職に 就いていたインドネシア人が続々と共和国の地方行政区として名乗りを上げたが、ヨグヤ スルタン国とは格式と実力に雲泥の差があった。 共和国政府がジャカルタで窮地に陥ったとき、共和国首都移転のアイデアが出されてスル タンとディパティがそれに歓迎の意向を表明し、共和国首脳の安全のためにヨグヤスルタ ン国が最大限の努力を払うことを約束した。スカルノとハッタが家族連れで隠密列車旅行 を行った根拠がそこにあった。 スラカルタ王宮は完全にその動きに後れを取り、ヨグヤが特別州として遇されたのと裏腹 にソロは領地を維持することすらできず、中部ジャワ州の一地方にしかなれなかったと解 説している論もある。 共和国が首都を移す前、共和国の正規軍隊である人民保安軍の総司令部をジョクジャに置 く案をスルタンとディパティが即座に承認した。ジャカルタをはじめとしてAFNEIとNI CAが乗り込んでくる国内諸都市に総司令部を置けば、まだ幼児期の国軍はすぐに赤子の 手をひねられる懸念が高かった。もっとも安全なのはヨグヤとソロの、AFNEIが戦後処理 の対象にしていない地方なのである。 1945年10月5日に人民保安軍が設立され、総司令部は今のスディルマン将軍通り7 5番地のDharma Wiratama陸軍博物館に設けられた。そこは現在ジョクジャの観光スポッ トになっているTugu Yogyakartaから東におよそ1キロ離れている。 時を移さずスルタンとディパティは10月26日に指令第5号を発出し、人民保安軍の下 部組織になる人民部隊Laskar Rakyatの編成を領民に命じた。ラスカルラヤッ構想は燎原 の火のように全国各地に広がっていった。 スカルノとハッタは1946年1月4日にヨグヤカルタに到着し、そのままパクアラマン 王宮の客人になった。スカルノの一家はグドゥンアグンに入り、ハッタの一家は民家を使 う計画だったから、それらの建物を早急に使えるようにしなければならない。そして1月 6日に応急処置が施されたグドゥンアグンで共和国の首都移転が発表された。その時から この建物はインドネシアの大統領宮殿になった。 他の大臣たちも民家を使い、表の部屋を執務室にし、家の外に国旗を立てて公職の場であ ることを示した。みんな竹竿で国旗を立てた。 1946年8月17日(土)に催された第一回独立記念式典はジャカルタでなくヨグヤカ ルタがその会場になった。ちょうど一年前の同じ時間に行われた宣言と国旗掲揚を再現し たあと、スカルノはいつもの調子で国民に独立闘争を継続するよう呼びかけた。「われわ れは独立国家として歩み続けようではないか。たとえ1年でも3年でも。できるなら30 年でも、あるいは3百年でも。いやもっと先の時代、この世が果てる時までも。恥を抱え て生きるくらいなら、死んだほうがましだ!」 [ 続く ]