「インドネシア大統領パレス(36)」(2024年11月14日) スカルノの一家がはじめて大統領として定居した宮殿がこのグドゥンアグンということに なるのだが、居住が始められたこの宮殿には家具があまりなく、執務上で不可欠の筆記道 具や紙もなく、厨房からは調理器具や食器の姿が消えていた。 物が欠乏している日本軍政時代を経てきたかれらはさまざまな知恵を使って物不足をやり くりしていたが、食材が調達できても調理できないのではお話にならない。大統領府官房 はジョクジャ市内の中華レストランから料理のための器具道具類や食器を借りてきた。な にしろスカルノ一家が持ってきたのは、スカルノの私物であるプラスチックのコップ1セ ットだけだったのだから。 おまけに雨が降れば雨漏りした。というのも、屋根瓦が割れたり落ちたりした箇所があち こちにあったからだ。大統領一家が暮らし始めて二週間余りの1月23日に、大統領夫人 ファッマワティが第二子を産んだ。この女児はディヤ・プルマタ・メガワティ・スカルノ プトゥリと命名された。出産のために用意されたグドゥンアグン内の部屋で関係者が出産 の世話に大わらわになっているときに室内にも雨水が降っていた、という話を関係者のひ とりが物語っている。 NICAと共和国間の武力抗争にAFNEI軍も巻き込まれて必然的にAFNEIはNICAと共同 戦線を張ったから、場所によってはインドネシア人とイギリスインド軍との戦闘も起こっ た。白人によるインドネシアの独立潰しに我慢のならない民衆青年層がラスカルラヤッに 志願し、武器を手にして国内各地で国軍が行っているゲリラ戦に加わった。各地の国軍戦 闘部隊が総司令部との緊密な連絡を必要としたため、青年たちはしばしば首都にやってき て総司令部や大臣と接触し、報告を渡して新たな指令をもらうことをした。 そのため、ヨグヤカルタにはいつも大勢の青年闘士が出入りしていた。ヨグヤカルタに来 た闘士たちは、任務を終えるとグドゥンアグンにやってきてブンカルノと話をする機会を 狙った。スカルノが息抜きに外へ出てくれば、かれらが大統領をつかまえて現場の状況を 耳に入れた。スカルノは大儀のために行動する青年たちを愛した。 中にはグドゥンアグンで雑魚寝する闘士もいたそうだ。何しろ戦時下なのであり、現場で 共和国を支えている闘士たちに大統領も敬意を払って当然の時代だったのである。 そんなグドゥンアグンで国際外交も展開された。独立宣言したインドネシア共和国を独立 国家として認定し、国交を結ぼうとする国はまだひとつもなかったのだ。独立宣言をした だけではまだ独立国家になれない。既存の独立国がその国を認めて国交を結ばないかぎり、 国際社会は独立宣言しただけの集団を国として認めないのである。 オランダはインドネシアの独立宣言を潰すために、スカルノ=ハッタが作ったインドネシ ア共和国はならず者武装反乱勢力が行っている、日本の傀儡国を作るための偽装であり、 インドネシアの民衆はかれらを支持するどころか信用すらしていない、という宣伝を世界 に流し続けた。 インドネシアがオランダの植民地であることを立証するためには、オランダは武力を使っ て武装反乱勢力を粛清しなければならない。主権保持者として行わなければならない当然 の措置がそれなのだ。 圧倒的な軍事力の差をたのんで、オランダはインドネシア国軍の軍事行動を阻み、その結 果を世界に宣伝した。ならず者武装反乱勢力は既に瀕死の状態にあり、インドネシアに発 生していた騒乱はほぼ鎮圧された。インドネシアはオランダの領土としてオランダと共に 復興と繁栄の道を今後も歩んでいくことになる。[ 続く ]