「インドネシア大統領パレス(37)」(2024年11月15日) オランダのそんな宣伝を潰すために、共和国軍はゲリラ戦を継続しなければならなかった。 スカルノ=ハッタのインドネシア共和国は決して瀕死状態になっておらず、民衆の支持と 支援を得てゲリラ闘争がこのように継続されているのだということを世界中に知らせるの が、共和国の独立を現実のものにするためにかれらが行わなければならない苦闘だったの である。 そしてインドがインドネシアと国交を結ぶ態勢に入った。インドからのデレゲーションが ヨグヤカルタにやってきて、国交締結のための準備会議を催した。雨漏りのする大統領官 邸がその会議場になった。インド代表団はマリオボロ通りの北端に位置するホテルムルデ カに宿泊した。このホテルは現在、ホテルガルーダの名前で営業している。 インドネシア共和国がはじめて持った大統領官邸内での儀典作法についても、規定書など 何一つ存在しなかった。インドネシア人にとって初めてのことだったのだから、当たりま えなのだ。官邸職員の中にかつて国際航路の船員だった者がいて、公式儀典作法について の知識をたくさん持っていたために何となくかれが大統領府官房の長の役割を演じるよう になった。 いろいろと決まりが作られていく中で、かれにもノーアイデアというものが出てきたとき、 かれはスルタンのクラトンを訪れて王宮内で行われている作法を教えてもらった。大統領 府でそのまま使えるものは問題なかったが、大統領府にそぐわないものももちろんあり、 内容が手直しされて使われた。 NICAにインドネシア共和国の強敵がふたりいるとハッタに言わしめたユベルトス・フ ァン・モーク東インド副総督とシモン・ヘンドリック・スプール植民地軍司令官はスカル ノ=ハッタのインドネシア共和国をせん滅する動きを執拗に繰り返した。ふたりは頭脳優 れた愛国者であり、祖国オランダの繁栄のために植民地インドネシアから得られる富をす べて祖国に供することを最大の使命と考えていた。しかしそれがインドネシア人一般大衆 に窮乏と苦難をもたらす結果になるという論理をふたりは意に介さなかったようだ。脳裏 に浮かばなかったのか、それとも些事として押し潰したのか? オランダ本国が20世紀初めから倫理政策を謳い始めてインドネシアの民衆に対する過去 の恩返しを唱えるようになったというのに、そのふたりの愛国者は祖国の変質を少しも理 解しなかった。 共和国せん滅を目的にした第二次軍事攻勢(NICAの言う警察行動)の結果1948年 12月19日に首都ヨグヤカルタが占領され、スカルノとハッタは捕らえられて北スマト ラに幽閉された。ヨグヤを去るに際してスカルノはスルタンのハムンクブウォノ9世とデ ィパティのパクアラム8世に共和国の首都ヨグヤカルタの後事を託している。 ヨグヤスルタン国とインドネシア共和国のつながりを断ち切るのに成功したNICAはあ らためてハムンクブウォノ9世に対し、全ジャワとマドゥラの最高後見人の地位をオファ ーした。スルタンはその申し出をけんもほろろに断ったばかりか、やってきたNICAの 高官職者およびスルタンハミッ2世とフセイン・ジャヤディニンラを拒否して、それ以後 面会しようとしなかった。 ヨグヤカルタがNICA軍の手に落ちたことが許せなかったスルタンはNICAに一泡吹 かせるよう国軍に命じた。「ヨグヤカルタを攻撃して共和国軍が健在であることを世界に 示せ。」 [ 続く ]