「中華イスラム(1)」(2024年11月18日)

東南アジア海洋部にイスラム教が伝わって来たのは13〜14世紀ごろとされている。イ
ンド洋西部から海上を移動してくれば、最初に出会う上陸地点はスマトラ島北海岸部だ。
サムドラパサイ、プルラッ、ラムリなどの港湾都市王国がヌサンタラで一番最初にイスラ
ム化したというのがインドネシア歴史学界の定説になっている。

あれっ、スマトラ島北西端はアチェだが、どうしてアチェでなかったのだろうか?そんな
質問を発するひとはアナクロニズムに陥っているのだ。アチェの歴史を読めばその理由が
すぐに判るだろう。歴史の中に起こった流れは歴史を知ることでその合理性を認識できる。
歴史の流れを地理の知識で眺めようとするかぎり、歴史の合理性に迫ることはできるまい。
歴史の合理性を理解することによって、われわれは人間というものを知悉できるようにな
る。地理の知識をどれほど深めようとも、人間というものへの理解は容易に得られないだ
ろうとわたしは思う。

15世紀ごろには、バタッ地方山岳部を除くスマトラ島北部からマラカ海峡沿岸部全域、
そしてマラヤ半島でも東西の海岸部がイスラム化した。そのころには、ジャワ島中部東部
の北海岸部に位置するドゥマッ・グルシッ・スラバヤそしてチルボンでもイスラム化が起
こった。

そこまで来れば、あとはイスラム化した王権が既存のヒンドゥ=ブッダ世界を征服する動
きに伴われてイスラム布教が進展して行くことになる。カリマンタン沿岸部、スラウェシ
沿岸部、マルクの島々へのイスラム教の浸透は時間の問題になった。

マルク地方へのイスラム渡来は少し状況が違い、スパイスのおかげでイスラム商船は早い
時期からマルクの島々にやってきていた。ジャワ島にできたイスラム王権にとっても、ス
パイスは王国?栄のための重要な商業物資だった。マルクの覇権を握って直接支配するの
が物理的に困難であっても、イスラム同盟を築けば商戦で有利なポジションに立てるとか
れらが考えなかったはずがあるまい。インドやアラブ・ペルシャのイスラム商船では考え
もつかなかったイスラム化の戦略がジャワから行われた可能性は否定できないように思わ
れる。

16世紀ごろになってイスラム化したマルクがヌサンタラ東部地方にイスラム化の波を起
こした。テルナーテとティドーレの覇権拡大に伴われて周辺諸地域にイスラム化が広がっ
ていったのである。面白い現象は、スラウェシ島東海岸部へのイスラム浸透がマルクから
の覇権拡大によってなされたことだろう。スラウェシ島東岸部へのジャワからの布教は二
次的なものだったと見られている。


イスラム化という言葉が本論で使われている。この言葉はムスリム民衆の生活共同体とし
てのウンマー(イスラム社会)の設立を意図している。ヌサンタラへのイスラムの伝来は
まずアラブ・ペルシャ・インド西部のイスラム教徒がヌサンタラの諸港にやってきて、新
しい思想としてのイスラム教を地元民の有志に教えるパターンで始まった。学習者の中に
市井の人間もいれば学者もおり、あるいは王族がその者を師として王宮に迎え、自らその
弟子になることも起こった。イスラム教義に詳しい優れたムスリムが住み着いた港市には
遠方からもイスラムを深めたいひとびとが集まって来て学窓の態をなした。

市井の人間はほとんどが自分の生き方の改善にそれを応用したのだろう。そのことに自己
の精神的救済と呼ぶ言い方を与えてもかまわないかもしれない。学者の中には、その新思
想をよりたくさんの同胞に教えようとして布教の行脚の旅に出る者もあった。王族の中に
は王位を継いだあとで、国王として王宮内から領民にまでイスラムに従って生きろと呼び
かけた者もあった。

ともあれ、外国からムスリムがやってきて個人的にイスラム教を広めたその段階をイスラ
ム化と呼ぶことはできない。まだウンマーの形になっていないのだから。

ウンマーができるためには、政治パワーが不可欠だった。思想としてイスラム化した王、
または領主は、人間のより良き生き方を自国自領内で実現させようとし、イスラム社会の
建設をもくろんだ。そこに生じたドライブがイスラム化、すなわりウンマー設立の駆動力
になった。ウンマーを設立するためには、既存のヒンドゥ=ブッダ社会を変容させなけれ
ばならないのだ。それがイスラム化という言葉の意味する内容だ。[ 続く ]