「中華イスラム(2)」(2024年11月19日)

日本の歴史を見るなら、織田信長の時代にはまだ日本に存在していた宗教ベースの民衆生
活共同体が封建構造の完成を目指す武士階級によって地上から抹殺され、宗教は個人の精
神的救済だけのためのものにされて社会を律する基準としての機能を削り取られてしまっ
た。その価値観が日本文化に深くしみ込んだ結果、その種の新興宗教が連綿と生まれ続け
たにも関わらず、それらは日本の社会から排斥される運命をたどったようにわたしは感じ
ている。これほど巧みな洗脳が行われた例がほかにあっただろうか?

現在その種の宗教のひとつが力をつけて、何十年にも渡って日本国内に存立し続けている
事実があるにはあるものの、その宗教生活共同体の構成員が一般的な市民共同体に属して
いないということは社会生活の中であまり顕著に示されず、何かがあって「あの家はその
宗派だ」ということが暴露されると周辺社会から感情的な排斥を受けて、社会交際上で浮
き上がってしまうような様相になっている印象をわたしは抱いている。

そういう日本文化の心理面における特異な宗教感情、あるいは宗教理解の功罪を語るほど
のパースペクティブをわたしは持っていないが、日本文化が宗教離れしていることを明治
維新の開国時に知った欧米人がその特異さを取り上げて絶賛した論説はたっぷり残されて
いる。自分たちが目指している姿が日本の社会に既に実現されていることにかれら欧米人
は驚ろいたようで、ひょっとしたらその辺りからニッポン先進国説が欧米に根を張りはじ
めたのかもしれない。


イスラム教徒の個々人にとっては、ウンマーの中で生きることがイスラム教徒の暮らしを
確立・完成させることになる。日々の暮らしで禁じられている、たとえば飲酒や豚食など
は、ウンマーからそれらの物品が完全に排除されるために個々のムスリムは禁を犯す可能
性がゼロになり、良き信徒として生きることができるのだ。

日々の行動規範である礼拝も、「今それを行う時間が来たぞ」と社会に告知される仕組み
が作られていて、個々のムスリムはセルフコントロールなどなしに宗教の決まりを実践す
ることができる。人間の一生の中に起こる通過儀礼や宗教上の祝祭、その他もろもろの宗
教行為が、たとえ本人が自主的にその内容や意義を正しく詳しく知っていなくとも、周囲
の世間がそれを導いてくれるために恥ずかしくないあり方でその形を示すことができるの
である。

日本で生活しているイスラム教徒のように、ウンマーから切り離された場で暮らしている
ムスリムにとって、イスラム法への完全服従、イスラム生活規範の完全遂行がどれほど困
難なものになるかは想像にあまりあるだろう。

日本人の多くが勘違いしているのは、日本のコンセプトに従うと宗教は個人救済のための
ものになっているがために、特定宗教信徒になるということはその宗教の指導者や宗教師
のような深い知識と理解を持って自己を律しているのが当然だと考えている点にあるよう
にわたしには見える。そうでない宗教信徒を見つけたときにかれらが示す軽蔑視がわたし
の見解の根拠だ。

その観点がいかに現実から遠いものであるかは、日本語Q&Aに出てくるさまざまな質問
が如実に示している。一日5回の礼拝でムスリムは自己を神と対峙させているのだと日本
人は考える。ところが毎日礼拝している篤信のムスリムに言わせれば、そんな高度な精神
活動を行うムスリムは十人に一人二人あるかないかであり、たいていのムスリムは習慣と
して行っているだけで、習慣を破ると気持ち悪いから毎日決められたことをしているだけ
だと答える。神に対峙するのでなく、自分がムスリムであることをリマインドさせるのが
日々の礼拝の機能のようだ。[ 続く ]