「中華イスラム(3)」(2024年11月20日) イスラムは人間ひとりひとりの精神的救済を究極的な目標に置いてはいても、個人生活の 中でそれを個別に行うのでなく、社会生活を営む人間としてそれを行うことが原理にされ ていた。個人主義が利己主義と同義語になっていた時代のコンセプトだ。 だからイスラム者はウンマーという形の生活共同体の中で円滑で調和のとれた社会生活を 営むことが第一優先項目にされ、イスラムはその社会生活における枠組みとして機能した。 ウンマーは1千数百年にわたって連綿と維持されて今日に至っている。 個人の精神的救済のために神と対峙する局面はウンマーにおける普通の人間としての社会 生活のずっと先にあるものなのだ。ウンマーが構成員に与えている生活様式はその先の局 面に向かう足場でしかなく、その先に向かうか向かわないかは個々人の資質と能力の問題 であって、向かわないウンマー構成員が圧倒的に多いという人間の本性をわれわれはそこ で再認識することになる。 世界中のどの文化であれ、その社会構成員の全員が博士・教授や哲学者のような人間ばか りになっているはずがない。そんなしかつめらしい頭脳と精神の活動を行わない、太平楽 で能天気な人間が圧倒的な多数を占めているのが社会というものではないのだろうか? 社会の基盤は家庭であり、夫婦と子供が核をなす家庭が寄り集まって社会を作る。そのた めに社会構成員=家庭構成員という図式ができあがる。これは世界中どこの社会でも同じ 原理になっている。 ウンマーの構成員は全員がムスリムだ。社会構成員の全員がムスリムであるためには家庭 構成員の全員がムスリムでなければならない。必然的に生まれた子供はムスリムとして育 てられる。イスラム教は選択されるものではないという本質がそこから見えてくるだろう。 異教徒にとっては選択肢になるが、それは本質論ではないのである。 ただし、ムスリムの家庭に生まれなかった大多数の日本人にとっては、選択されるもので あり続ける。その非普遍的な立場から世界のイスラムを眺めて、かれら世界中のムスリム はどうしてイスラム教を選択したのかという疑問を発するほど無知な思考法はないだろう とわたしはかねがね思っている。 イスラム化とはウンマーの設立であると上に書いた。異教徒だった王国の支配者、つまり 王家や王宮のひとびとがイスラムに入信することがイスラム化なのではない。王家や王宮 のひとびとがムスリムになると、その領土の民衆は放っておいてもムスリムになるのだろ うか?たとえどこかの地方でそんなことが起こったとしても、世界中の人間がそこまで服 従心旺盛に生きているとは思えない。このケースでも、日本人の思考方法が特異なもので ある気配をわたしは感じるのである。お上への服従と横並び同調社会という大衆の精神性 がそれだ。 少なくともインドネシアでは、たとえ支配者がどんなライフスタイルを実践しようが、そ の下にいる民衆が自分からそれに見倣おうとするケースは、支配者に取り入ろうとする連 中を別にして、稀なように思われる。だから支配者は民衆に「ああしろ、こうしろ」と働 きかけることになる。暴力の威嚇も当然使われるだろうが、領民を殺したり逃散させては 領地の繁栄が困難になる。労働力が多いほど領地が富むのだから。[ 続く ]