「インドネシア大統領パレス(39)」(2024年11月19日)

6.タンパッシリン宮殿 Istana Tampaksiring
上の5ヵ所と異なって、独立インドネシア共和国が大統領のためにはじめて建てた宮殿が
これだ。保養の要素をたっぷり持たせた大統領宮殿をバリに設けるに当たってスカルノは、
キンタマニ、カランガスム、タンパッシリンの三候補をまな板に載せ、タンパッシリンに
白羽の矢を立てたのである。

バリ州ギアニャル県タンパッシリン郡マヌカヤ村にはもともと、ギアニャル王家の別荘が
あった。ギアニャル王がインドネシア共和国にその土地を献じたので、スカルノ大統領が
その別荘を取り壊し、Wisma Merdeka、Wisma Yudhistira、Wisma Negara、Wisma Bima、
Ruang Serbagunaなどの建物群で構成されるイスタナを19.26Haの土地に設けた。宮
殿の庭園には1,062本の年経た巨木が茂り、魚の棲む池があちらこちらに作られた。

スカルノはそのランドスケープに沿ってサイトプランを構想し、建築家のRMスダルソノ
にデザイン作りを命じた。それにチョコルダ グデ ラカが助言を与え、1957年にウィ
スマムルデカとウィスマユディスティラの建設が開始されて1960年に完成し、最終的
に、1963年に残るウィスマヌガラとウィスマビマが完成して宮殿ができあがったので
ある。各建物のデザインはスカルノ好みの風貌を強く示している。

最初に完成したウィスマムルデカは9つの客室から成っており、大統領の一家がバリを訪
れたときにはそこを使うように設計されたようだ。ウィスマユディスティラは大統領とそ
の家族を警護する大統領特別警護隊員の宿舎を主用途にしていて、18の客室および兵舎
が備えられている。

完成が最後になった7つの客室を持つウィスマヌガラと17室のウィスマビマは国賓の宿
舎としての機能がメインに置かれた。加えて、国賓に付き添う従者や警護者がそれらの建
物に収容できない場合のために離れ屋が10軒建てられている。しかしすべてが完成した
後は用途がまたアレンジし直されて、ウィスマユディスティラは大臣級のひとびとが使い、
ウィスマビマは警備要員が使っているそうだ。宮殿内に設けられたすべての客室は5星級
ホテルの評価基準を満たすものになっている。


スカルノは宮殿建設の進行をチェックするためにしばしばバリを訪れた。おまけに196
3年からバリ島初の5星級ホテルであるサヌルのバリビーチホテルの建設とトゥバンのグ
ラライ国際空港拡張工事が開始され、スカルノのバリ訪問が続いた。

バリの観光産業を振興させるためのそれらの建設工事は日本の戦争賠償金が充てられたか
ら、スカルノ時代にあちこちで行われた大型建設工事の多くが日本の資金と技術に負って
いたと言えるだろう。スカルノが行った高級ホテルと国際空港の充実はその後のバリにお
ける観光産業の進展を支える土台になったと見てまちがいあるまい。

そのバリの観光産業が風前の灯火に陥ったことがある。2002年10月に起こったバリ
爆弾テロ事件のために観光客がバリ島に寄り付かなくなった。だいたい年間2百万人やっ
て来るツーリストが2003年には90万人に減少した。思いもよらなかった不況がバリ
を襲ったのである。本論筆者はジャカルタから大安売りをしているガラガラのバリ島に喜
んで遊びに行ったのだが、空港内にもまったく混雑が見られず、空港売店のおじさんは様
子を尋ねたわたしに苦衷を物語ってくれた。

メガワティ大統領がそんな状態のバリ島に起死回生の妙薬を与えようとして、2003年
10月に第9回アセアン首脳会議をバリに誘致し、出席した14カ国の首脳陣をタンパッ
シリン宮殿に招いて晩餐会を催した。各国首脳はそのもてなしを愉しみ、バリ島に危険な
雰囲気がないことを確信して帰国した。それ以後、バリ島来訪ツーリストの数は徐々に回
復して行った。[ 続く ]