「中華イスラム(5)」(2024年11月22日)

沿岸部の湿地帯の崩れやすい土地にできたドゥマッの町に15世紀はじめごろ、ラデン 
パタが領主として任じられた。ドゥマッ地方はモジョパヒッ王国の領地のひとつであり、
王族を各領地の領主に任じるのがモジョパヒッの統治方針だった。だからモジョパヒッの
大王になった者はたいていいくつかの地方領主を経験している。ラデン パタはムスリム
だった。ラデン パタという人物についても諸説ある。

父親は1447〜1451年にモジョパヒッの大王を務めたブラウィジャヤ5世、別名ス
リ プラブ クルタジャヤであり、ラデンパタはその王子だと言う。しかしトメ・ピレスは
ドゥマッ王国の開祖をグルシッの賎民階層出自のパテ・ロディンだとスマオリエンタルに
書いている。

その賎民階層ということの内容をアグス・スニョトは「アトラスワリソ~ゴ」の中でこう
解説している。16世紀初期のジャワ島の社会構造の中で、プリブミは高貴な出自とされ
ていた。一方、外の土地から流れてきた非プリブミは召使のような賎民階層と位置付けら
れた。モジョパヒッ王国の民衆社会構造はヒンドゥ教に従ったカースト制度で成り立って
いたが、外から流れてきた非ヒンドゥ教徒はスードラより下のCandalaにも入らない
Mlecchaとされていた。

ラデン パタは同じ父アルヤ ダマルの異母兄に育てられた。アルヤ ダマルはパレンバン
の支配者で、そのころはジャワヒンドゥ教徒だった。成人してからパタはジャワに渡り、
スラバヤのプサントレン「アンペルデンタ」でラデン ラッマッ通称スナン アンペルに
師事した。スナン アンペルはジャワ島でイスラム布教に大きく貢献した9人の聖者ワリ
ソ~ゴのひとりだ。

ワリソ~ゴはスナン アンペルのほかにスナン グルシッ、スナン ボナン、スナン ドラジ
ャッ、スナン クドゥス、スナン ギリ、スナン カリジャガ、スナン ムリア、スナン グ
ヌンジャティがその栄誉ある聖者たちとしてイスラム社会で尊敬されている。

ラデン パタはスナン アンペルからイスラムの奥義を授けられ、さらに娘のデウィ・ムル
トシマを妻に得た。ドゥマッにイスラム王国を築くことはスナン アンペルの指示だった
と言われている。ドゥマッのスルタン位に就いたとき、ラデン パタはセノパティ ジンブ
ン ニンラッ ~ガブドゥラッマン パヌンバハン パレンバン サイディン パナタガマとい
う称号を名乗った。


ジャワ島にはじめてウンマーができたとき、ムスリムたちは宗教シンボルとしての壮大な
モスクの建設を望んだ。現存するドゥマッの大モスクがそれだ。そのモスクの建設にあた
って、ワリソ~ゴが中心的役割を果たしたと言われている。

建物のデザインはアラブの模倣でなく、ジャワ風建築様式で作られた。三層の屋根はムス
リムの宗教心の深化を表すiman-islam-ihsanを象徴している。モスク内部の4本の大黒柱
は建物の枠組み全体を支えるために丸太が使われた。そして表ベランダの屋根を6本の柱
が支えている。

礼拝指揮者であるイマムが立つミフラブの上にはSurya Majapahitのアイコンが掲げられ
ている。スルヨモジョパヒッというのは中央の円を囲んで周囲に8角星が芒を伸ばしてい
る図柄だ。ヒンドゥ教のコンセプトでは、スルヨモジョパヒッは9神を示すものとされて
いる。北のウィスヌ、北東のイスワラ、東のサンブ、南東のマヘスワラ、南のブラッマ、
南西のルドラ、西のマハデワ、北西のチャンカラ、そして中心部のシワである。
[ 続く ]