「中華イスラム(7)」(2024年11月26日)

現代のインドネシアに2万3千3百ヵ所のプサントレンがある、とナフダトゥルウラマプ
サントレン協会会長は言う。それはナフダトゥルウラマ系プサントレンの数だ。ナフダト
ゥルウラマ系プサントレンは、地元社会に開かれた温厚平和で寛容なイスラム教育の伝統
を現代のインドネシアで実践している。

どのナフダトゥルウラマ系プサントレンも、その歴史をさかのぼっていくとワリソ~ゴに
到達するそうだ。プサントレンの主幹者が系図上でワリソゴにつながっているというケー
スだけでなく、Aプサントレンの主幹者がBプサントレンの卒業者であり、Bプサントレ
ンの主幹者がCプサントレン卒業者で、Cプサントレンの主幹者がワリソゴの子孫である
というようなケースもたくさんある。

一方、インドネシアのイスラムがアラブのイスラムに純粋に従っていない面を批判し、本
家ホンモノのイスラムを教えていると自認する、周辺社会と一線を画して閉鎖的なイスラ
ム塾になっているプサントレンもたくさんインドネシアに存在している。


宗教団体ナフダトゥルウラマを創設したキアイ ハジ ハシム・アシュアリは東ジャワ州ジ
ョンバンにトゥブイレンという名のプサントレンを開いた。場所はチュキル製糖工場の近
くで、地元社会にオープンなプサントレンとして親しまれた。

1884年から活動の歴史を開始した中部ジャワのバレカンバンプサントレンはかつて、
民衆が営んでいたお祓いの慣習をイスラムの祝賀の祈りに衣替えさせた実績を持っている。
その地方では昔から子供が結婚するとき、婚礼がつつがなく行われるように願って生贄の
ニワトリを川に投げ込んでいた。

プサントレンはその迷信を変えさせることを計画した。今では、ニワトリが川に投げ込ま
れるのは同じだが、ニワトリの脚は紐で縛られている。川の向こう側ではそれを拾う役の
者が待っており、川から拾い上げたニワトリをすぐに捌いて料理し、その料理を神に捧げ
て新郎新婦の幸福を祈ってからみんなでそれを食べるというイスラムの祝賀行事に中身が
変容したのだ。悪霊を祓う生贄の儀式ではなくなったのである。

このプサントレンは昔から地元社会に開かれたプサントレンとして運営されてきた。たく
さんのサントリが寝泊まりしているのだから、サントリの制服や他の衣食住の需要が発生
する。プサントレンはその供給をすべて地元民に求めた。地元経済にひとつの市場を開い
たということが言える。その一方で、プサントレンは地元行政にそれなりの発言力を持っ
ており、地元民の種々の苦情や要望をプサントレンが汲み上げて行政に伝える動きもひと
つの習慣になっている。

西ジャワ州チルボンのババカンプサントレンはチルボンのバティッセンターのひとつであ
るチワリギンから1キロくらいの距離にある。1907年ごろ、ババカンプサントレンの
師のひとり、ムハンマッ・アミンがババカン部落南部の住民にバティッの作り方を教えた。
それがチワリギンバティッセンターの誕生につながったと言われている。かれはプカロガ
ン出身の父親からその技術を受け継いだ。

しかしかれのその功績は妻のウンミ・クルツムのおかげだったという話もある。ウンミは
チルボンのプレレッ出身で、バティッ制作をよく行った。アミンは妻がバティッの図柄を
構想するための部屋をひとつ用意した。妻はその部屋でバティッ生地に使うモリ布を作る
こともした。バティッ制作を学びたいサントリにこの夫婦は喜んで制作技術を教えた。そ
の当時、この地方では子供がアルクルアンを読誦できるようになると、その子を指導した
イスラム師にバティッ布を贈る習慣があったので、市場にはバティッ布の大きな需要があ
ったのである。

こうしてチワリギンの住民の多くがバティッ布生産に携わるようになり、チルボンスタイ
ルのバティッとしてチワリギンはトゥルスミと名声を二分する存在になった。[ 続く ]