「インドネシア大統領パレス(44)」(2024年11月26日)

7.ガルーダ宮殿 Istana Garuda
スカルノ初代大統領の衣鉢を受け継ぐジョコ・ウィドド第7代大統領が、スカルノがなし
得なかった首都移転をついに実現させた。法制上では、IKN(Ibu Kota Nusantara=首
都ヌサンタラ)と名付けられた新首都への移転を定める2022年法律第3号が2月15
日に制定され、国民総意のもとに首都移転の実行を政府に命じる形式が執られている。

スカルノはジャカルタの町を嫌っていた。オランダ人が作った都市ジャカルタはスカルノ
にとって、オランダ植民地主義と西洋帝国主義のシンボル以外の何ものでもなかったので
はあるまいか。

わたしが西欧帝国主義と書かなかったのには訳がある。かれは東欧帝国主義をも否定して
いた。西洋帝国主義の東西衝突がイデオロギー対立の形で激化したことから、スカルノは
対西側陣営との政治駆引きにソ連を巻き込んで西側諸国に対する交渉力を強化する手段を
使った。そのためにインドネシア共産党がかれの手放せない切り札になってしまったのだ。
東と西の西洋人をうまくいなして両者から援助を引き出し、インドネシアの国土開発を推
進することがかれにとっての至上命題だったように思われる。

スカルノは政治イデオロギーとしての社会主義や共産主義にとらわれるような人間ではな
かったにちがいない。かれはあたかもインドネシアを社会主義や共産主義のイデオロギー
国家に向かわせるような演出を行い、アンチ西欧資本主義を国内全土に行き渡らせたが、
かれの経済イデオロギーは民衆経済という一種の原始共産主義的な色合いを帯びたマルハ
エニズムだったのであり、スカルノは最後までインドネシア共産党が国政の実権を握るこ
とを許さなかった。当時のソ連の姿が示している、共産主義国家としてロシアの属国にな
るような道をスカルノは選択しなかったのだ。アジアの一未開発国の首長が示すそんな態
度が気に召さない白人もきっとたくさんいたことだろう。


スカルノの国内統治は、共産党への押さえとしてイスラム系政党を当て込み、陸軍を彼自
身の政治プログラムの基盤に置いて共産主義国家への傾斜に対する防波堤にするというパ
ワーバランスの上で演じられるアクロバットの趣を呈していた。それがスカルノ政治とい
うものだったのではなかったろうか。だがアクロバットにも幕引きの時がやってきた。イ
ンドネシア国民から崇拝されていた建国の父は、強力な敵が仕掛けたあのG30S事件で
ついに高転びしたのである。

当時の西側陣営のリーダーを務めた米国上級政治家たちがいかにスカルノを憎んでいたか
についてはインドネシアのジャーナリズムが赤裸々にそれを物語っている。G30S事件
は起こるべくして起こった事件であり、その裏で国際的謀略が踊ったことも既に語られて
いる。インドネシア人だけの考えで起こった反共産革命事件では決してなかったというこ
とだ。なにしろ既に独立闘争期の対オランダ武力闘争の中で、オランダ植民地支配と癒着
していたインドネシア社会の中にある封建構造を革命の名のもとに粛清したのがスカルノ
自身だったのだから。[ 続く ]