「インドネシア大統領パレス(45)」(2024年11月27日)

スカルノがバンテン広場という名前を与えた、オランダ時代にヴァーテルロー広場と呼ば
れていた場所はバタヴィアの儀典広場だった。東インド政庁はさまざまな式典をそのヴァ
ーテルロー広場で行った。やってきた日本軍もオランダ時代のやり方を踏襲した。

一方、現在のインドネシア共和国儀典広場であるモナス広場はオランダ時代の末期、軍隊
の練兵場から脱してスポーツや娯楽のための公園および種々の事業所が置かれている広大
な土地になっていた。年に一度、そこでPasar Gambirと銘打たれた一大博覧会が催された。

共和国時代になってから、植民地時代の伝統だったパサルガンビルがジャカルタフェアと
いう名前で復活し、開催期間を通してたくさんの一般庶民がやってくる高い人気の催事に
なっていた。後になってジャカルタフェアはクマヨラン空港跡地に常設会場を作って移転
している。

スカルノがその二つの広場の位置付けをひっくり返したのは、オランダの臭いを消すこと
が最大の目的ではなかったかとわたしは想像している。もちろんイスタナムルデカとの関
連性もモナス広場の方がはるかに高いため、どちらの意図が強かったのかということは言
いにくいわけだが、ヴァーテルロー広場に建てられてあったJPクーンの銅像を引きずり
倒したのが日本軍でなくてスカルノだったそうだから、かれのヴァーテルロー広場に対す
る心情がどうだったのかをそれが物語っているように思われるのである。


そのスカルノがインドネシア共和国の首都をジャカルタからカリマンタン島に移転させる
構想を抱いていたことはあまり語られていない。スカルノがそれを言い立てることをしな
かったのも、あの時代のあんな状態のインドネシアにそれを実現させることが不可能事で
あったことをスカルノが知り抜いていたためだろう。

ジャカルタの独立宮殿はスカルノにとって、家庭であり、大統領の職務を果たす職場でも
あった。かれの人生がその建物で営まれ、その建物がそのための最大の効果をかれの行動
にもたらしていることはかれ自身も、かれに近いひとびとにもよく分かっていた。しかし、
スカルノ自身の心の奥底に、かれがその建物に満足しきっていないことを感じ取ったひと
びとがいて、スカルノの感受性に関わるこんなコメントを書き残している。
「かれが使っている執務室や個人生活を営んでいる部屋や空間を、昔のインドネシアを支
配した人間が使っていたのだ。そのことがかれの心に浮かび上がるとき、過去のネガティ
ブな遺産を排除しなければ新生インドネシアは完成しないとスカルノは思ったのではある
まいか。」

メガワティもジョコウィもスカルノの心を知っていたから、故人の夢をかれらが実現させ
たのではないかという推察が可能であるように思われる。


新首都IKNの位置は東カリマンタン州南部のバリッパパンから30キロほど北に離れて
いる。IKNはトランスカリマンタン道路で他の諸都市と結ばれることになるが、バリッ
パパンはトランスカリマンタンが通らないので、県道を介してつながることになる。IK
Nのコア部分の広さは5.6万Haで、原生林を広範囲に残し、自然に満ちた政治都市と
して建設される予定だ。

広さ2千4百平米のイスタナガルーダのデザインは、バリ島のGWKの像を作ったイ・ニ
ョマン・ヌアルタが描いた。ガルーダが翼を広げているイメージで描かれたそのデザイン
にジョコウィ大統領が2022年に承認を与え、2024年8月17日の独立記念日をそ
こで祝う予定で建設工事が開始されたものの、最後の仕上げが間に合わなかったために2
024年8月17日の記念日はガルーダ宮殿の完成宣言が行われる前の状態だった。

それでも、IKNで初めて行われた共和国独立記念式典の目玉行事である国旗掲揚の再現
はつつがなく実施され、ジョコ・ウィドド第8代大統領が舞台を退く花道を飾ることにな
ったのである。[ 続く ]