「インドネシア大統領パレス(46)」(2024年11月28日) 厨房が備えられて国一番の料理人が腕を振るっているのが宮殿の絶対条件ではないだろう か。美食が忘れ去られている宮殿が大昔から果たしてあったかどうか。最高権力者が享受 する贅沢の中に人間の三大欲望の充足が厳然として存在しているのは人類史が示す明白な 人間の姿ではあるまいか。その目的のために人類は知恵のついた直立歩行するサルの時代 から、狡猾で貪欲で残虐な振舞いを自分の敵に対して行ってきたはずだ。 インドネシアの大統領宮殿も、もともとはオランダ人総督が飲食していた館であり、シェ フが豪華なフランス料理を供していた様子が想像される。しかし時には、幼少期に食べて いたプリブミ料理を愛好したオランダプラナカンの総督が盛んにレイスタフェルを作らせ ていた可能性も推測できないこともない。そんなとき、宮殿の厨房に鎮座したシェフの間 にプリブミ料理人の顔も混じっていたはずだ。 そこがインドネシア人のものになったとき、フランス料理は一転してヌサンタラの家庭料 理に取って代わられたに違いあるまい。独立当初は間違いなくそうなっていたのではない かとわたしは推察する。 スカルノの時代、独立宮殿で執務する大統領に来客があると、厨房からコーヒーが届けら れる。そんなとき、一緒に出てくるつまみ物はたいてい茹でたシンコンや茹でピーナツだ ったそうだ。 スカルノの長男グントゥルは、食事の際に父親が好んで作らせていた料理についてこう物 語った。「ヨグヤカルタ時代に父はlodeh rebung(筍のロデ)とテンペの細切れを昼食に 好んで作らせていた。pecel bunga pohon turi(トゥリ花のプチュル)も好物だった。 よく出されたおかずはkembung goreng(クンブン魚=サバの一種、のから揚げ), tempe tahu, botok mlanding(プテチナのボトッ)などだ。料理人はンボ・チトロだった。 ジャカルタの独立宮殿に移るとき、父はンボ・チトロにジャカルタへ来るように要請した から、ンボ・チトロは独立宮殿の料理人にスカルノの好きなおかずの作り方を伝授した。 ンボ・チトロは他の大統領宮殿の料理人にもそのメニューを伝授したが、タンパッシリン にだけは行かなかった。 父が肉を食べたいときは母(ファッマワティ夫人)がbalado ikanやrendangを作った。父 はpetaiやjengkolを、小便が臭くなると言って料理に使わないようにさせた。 宮殿で家族で食事するとき、食卓に必ずスプーンとフォークがテーブルに置かれた。とこ ろがわたしの一家はmuluk(手づかみ)で食事するのが習慣になっていた。ムルッで食べ る方がはるかに速い。しかし速さを求めたためではなくて、一家の主人である父が監獄生 活を体験していたという要素もそこに絡んでいた。」 独立宮殿の警備員はあるとき、大統領が知らぬ間に宮殿を抜け出し、アンコッに乗って宮 殿の表に帰ってきたことに驚かされた。そのとき、スカルノはsate lontongを食べたくな ったらしい。アンコッから降りた大統領が手にサテとロントンの包みを提げているのを見 て、その警備員はニンマリしたそうだ。 ファッマワティ夫人は自著の中で、スカルノ大統領が好んだおかずを羅列している。 lodeh rebung, rendang, balado ikan, tempe goreng, sambal lele, gado-gado, ikan teri goreng, ikan kuning, pepes daun singkong. [ 続く ]