「中華イスラム(10)」(2024年11月29日)

中国とヌサンタラの間にはイスラム渡来前から交通があった。1275年の項目として中
国の史書に、三佛齊の朝貢がなくなって須文答刺の朝貢使節が来航したことが記されてい
る。三佛齊はスリウィジャヤ、須文答刺はサムドラ(パサイ)のことだ。

マルコ・ポーロは1292年にサムドラパサイの土を踏んだ。かれはこう書いている。
「サムドラパサイの王は中国皇帝に服しているが、あまりにも遠方であるために朝貢でき
ないでいる。」

イスラム布教に関してヌサンタラと中国の間に起こった関係は、中国在住アラブ人と中国
人ムスリムのヌサンタラへの布教だった。それがヌサンタラのイスラム化に「華人の大き
い貢献」というひとつの説を促す根拠になった。

中国航路は14世紀のトレンガヌのイスラム化プロセスにたいへん大きな役割を果たした。
15世紀のジャワにとっても同じだった。それらの地方へのイスラム伝来は中国から発し
てチャンパがリレーステーションになったと考えられている。

明の皇帝が鄭和を提督、馬歓を通辞とする大船団を派遣したことで、ヌサンタラのイスラ
ム化が促進された。鄭和も馬歓もムスリムだったのだから。中国との政治経済面での繋が
りを活発化させるための鄭和の航海は14世紀に何度も繰り返された。

スラマッ・ムリヤナ教授はジャワ島のイスラム化に鄭和が果たした役割の大きさを評価し
ている。鄭和はジャワ島のあちこちにモスクを建設させた。ジャワ島に中国建築様式のモ
スクが目に付くのは当然の話なのだ。ところがムリヤナは1970年代に世間を震撼させ
る新説を発表した。ワリソゴが華人と華人混血子孫だったという説だ。この説には更に深
い研究が待たれている。

ともあれ、少なくとも歴史記録の中に、スナンアンペルの妻はチャンパの王女であり、ラ
デンパタの母であるブラウィジャヤ5世の妻と姉妹だったという記述がある。スナングヌ
ンジャティの妻のひとりは華人女性であり、チルボンにあるその墓は今でも華人系民衆の
参詣の対象になっている。

バンテン大モスクの本館とミナレットは華人建築家の作になるものだとダニエル・ペレが
2005年に発表した。ヌサンタラのイスラム化プロセスにいかにたくさんの華人が関り
を持ったかについては、議論の余地がないだろう。

インドネシアのイスラムと華人はイスラム化の初期から密接な関係にあった。昨今、折り
にふれて現れる、レーシズムに彩られたプリブミムスリムと華人プラナカンの間の疑惑と
不信に満ちた対立感情はインドネシアのイスラム発展史を正しく認識していない、伝統か
ら外れたものと言うことができる。


スラマッ・ムリヤナ教授のワリソゴに関する仰天説は1968年に出版されたRuntuhnya 
Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-Negara Islam di Nusantaraと題する著作の
中に述べられたものであり、1971年に最高裁がこの書籍を発禁処分にした。

インドネシア国民の大部分がムスリムであり、ムスリムが聖者と仰いでいるワリソゴに華
人が何人も含まれているという説が国民生活に不穏と混乱をもたらすものと判断されたか
らだ。オルバ政権の基本方針がどのようなものであったかを思い出せば、この発禁処分が
執られるべき政治判断になって当然だったことが理解できるだろう。[ 続く ]