「中華イスラム(11)」(2024年12月02日) スラマッ・ムリヤナの提示した説はアスヴィ・ワルマン・アダムによれば、Serat Kanda, Babad Tanah Jawi, スマランのレシデンだったポーツマンが三宝公寺院所蔵記録を基にし て作った報告書から引用したパルリンドゥガンの著作という三つの文献の内容を総合して 引き出したひとつの仮説なのである。 オランダ東インド政庁は1928年、スマランのレシデンであるポーツマンにラデン パ タが華人だったかどうかについての調査を命じた。ラデン パタはスラッカンダにパヌン バハン ジンブン、ババッタナジャウィにセノパティ ジンブンという称号で登場する。ジ ンブンという言葉は、ある中国の地方語で「実力者」を意味している。 1926・1927年のインドネシア共産党蜂起が鎮圧されて間もない時期とあって、行 政の振舞いが多少逸脱しても世間がそれを受け入れる状況になっていた。おかげでレシデ ン閣下はスマランの三宝公寺院所蔵記録を牛車に三台分ごっそりと持ち出すことに成功し た。すべてが漢文で書かれている記録であり、古いものは4百年の歳月を超えるものが含 まれていた。マガラジャ・オンガン・パルリンドゥガンは自著「トアンク ラオ」の中に ポーツマンの報告書の内容から抜粋したものを織り込んだ。スラマッ・ムリヤナはトアン ク ラオを参照文献として使った。 ムリヤナの引き出した結論では、1445年にジャワ島に来航した華人Bong Swi Hooがス ナンアンペルと同一人物なのである。ボン・スウィホーはGan Eng Cuの娘Ni Gede Manila を妻にした。ガン・エンチューはマニラのカピタンチナだった人物で、1423年にトゥ バンに移住した。 ボン・スウィホーと二 グデ マニラの夫婦の間に生まれた子供がBonangで、後にスナンボ ナンの名前でワリソゴのひとりに奉られる。ボナンはスナンアンペルとスナンギリが養育 した。 ガン・エンチューの別の子供がGan Si Cangで、シーチャンはスマランのカピタンチナを 務めた。1481年、シーチャンはドゥマッ大モスクの建設を指揮した。かれはスマラン の造船場で働く木工職人を集めてモスクの建設工事を行い、その大黒柱に大型船の帆柱と 同じ構造を用いるよう命じた。それは大量の木片を細かく整然と組み合わせて柱にしたも のであり、丸太よりも大きい耐久力を持っていると考えられていた。 もうひとりの華人スナンは若いころラデンサイッと呼ばれていたスナンカリジャガだ。ガ ン・シーチャンこそがそのスナンカリジャガだとムリヤナは言うのである。 ワリソゴの別のスナンのひとりにスナングヌンジャティ別名シャリフ・ヒダヤトゥラがい る。この人物の正体はムリヤナによれば、ドゥマッの第4代スルタンとして1521〜1 546年の間玉座に着いたトレンゴノの王子Toh A Boであり、更にスナンクドゥスはジャ ファル・シディッ、華人名Ja Tik Suなのだそうだ。 アダム博士は言う。ワリソゴの中に華人がいようが華人プラナカンがいようが、そんな学 説を発表してならない理由などない。ただ、スラマッ・ムリヤナ説の弱点は、その骨子の 多くがパルリンドゥガンの著作から引用されたものであり、スマランの三宝公寺院所蔵文 献である第一次資料を直接踏まえていないことだ。漢文で書かれたその原資料、そしてイ ンドネシアあるいは中国本土にある15〜16世紀に(多分漢文で)書かれた文献の調査 なくしては、その仮説の審議を行うことはできるまい。 その時代、15世紀初期に鄭和の大船隊が行った記録がたくさん書かれている。鄭和の船 団はヨーロッパ人が行った航海よりはるかに大規模なものだった。鄭和は同じムスリムで ある馬歓を通辞として伴い、馬歓は瀛涯勝覧を著して船団の航海と各地の様子を中国社会 に告知した。 その著作によれば、ジャワ島に住む華人は広東・?州・泉州の出身者で、かれらは中国を 去ってジャワ島東沿岸部の港市に定住した。トゥバンの町には一千人と少々の華人が居住 していた。グルシッは広東人が入植するまで、ただの海岸線があるだけだった。スラバヤ も住民の多くが華人だった。それら華人の大多数がムスリムになり、イスラム教の定めに 従って生活していた。[ 続く ]