「中華イスラム(12)」(2024年12月03日) 世紀が交代すると、ヨーロッパ人が書き残した華人ムスリムの話が登場するようになる。 バンテンが17世紀に大きい繁栄を達成したとき、大型事業家Tan Tse Koの名前が記録の 中に出現した。この華人はバンテン社会に受け入れられ、地元の民衆生活に溶けこんで闊 達な暮らしを営んだ。というのも、かれは自らをムスリムであると表明し、チャクラダナ という名前で社会生活を営んだからだ。 かれは世界的な視野を持つビジネスマンだった。歴史記録には、かれが1670年、16 71年、1672年、1676年と何度もインドシナに交易船を送り出したことが記され ている。タン・ツェコがヨーロッパ人商人と取引していたことも、スカンジナビアのさる 国の博物館に収納されている支払い督促状が示している。その書状は当時のリンガフラン カだったムラユ語で書かれていた。 わたしはここで信心の話をしているのではない、とアダム博士は念を押している。それは 本人の心の中でしか測ることのできないものであり、どれほどイスラム教義の実践をその 人物が行ったのかということを歴史資料の中で探すのは無理な仕事なのである。 タン・ツェコはオフィシャルに自分がムスリムであると自認した。当時のバンテン社会の ほとんどの住民が信仰している宗教に帰依したと自ら述べたのだ。その結果がかれのバン テン地元民社会への融合であり、チャクラダナが地元社会構成員のひとりとしてそこで暮 らすことを可能にした。 王と近い関係にあることが富裕商人をしばしば公職者の地位に就かせた。統治支配者がそ の種の人事を行うことは現代までひとつの慣習として続いている。1677年にチャクラ ダナはバンテン港のシャバンダル(港務長官)の職を与えられた。残念なことに1682 年4月、VOCはバンテンの支配権を握り、国際開港だったバンテンを閉鎖して港湾機能 を独占した。 ワリソゴの身元の詳細ばかりか、ヌサンタラのイスラム化の歴史に関しても中国語資料が 大きな意味を持っていることは明らかであり、ヌサンタラの一般的な歴史だけでなく、イ スラム発展史の研究においても中国語資料のより深く広範な調査がなされることが期待さ れているという示唆でアダム博士のこの論説は閉じられている。 何世紀も前にヌサンタラに移住した華人の多くがムスリムになったことはあまり認識され ていないように見える。東南アジアに移住した華僑やその子孫である華人プラナカンを中 国の国際政治における在外一勢力と見なす見解は依然として強い。だが、いま東南アジア の国籍者になっている華人子孫たちが、本当に祖先の故国の危機に身を投げ出す意志を持 ち続けているのだろうか? 昔、インドネシアの国勢調査に面白い項目が含まれていた。回答者が答えを求められてい る項目の中に、自分の所属する種族名を答えさせる一項がある。純血統者であれば選択の 余地はないが、現代インドネシアのようにさまざまな種族が入り乱れて何世代にもわたっ て混血を続けてきたひとびとがその答えを書くとき、何が選択されるのだろうか? 素人頭でわたしが考えるのは、多分本人が自分のアイデンティティとして持っている感覚 的なものになるように思われる。つまり自分の血統の中のどの種族を自分のアイデンティ ティとして有力視しているのかということだ。ということはもはやそれは血統を離れて、 文化の領域に入り込んでいることを意味していないだろうか。[ 続く ]