「インドネシア大統領パレス(50)」(2024年12月04日)

スカルノのアートコレクションは、首都がジャカルタに戻された後その規模が数倍に膨れ
上がった。オランダ人ががらんどうにしたばかりか壊していったジャカルタやボゴールの
宮殿を修復して飾るために、ジョクジャ時代を上回る大量の需要が起こったのである。ヨ
グヤカルタ時代に始まったスカルノ大統領とインドネシア人芸術家の親交はジャカルタに
戻ってからも続いた。大統領宮殿に芸術家を集めて芸術談義にふけるのをかれはとても好
んだ。それはグドゥンアグン宮殿で開始された習慣で、ジャカルタの独立宮殿でもそれが
続けられた。

諸地方へ視察や国家行事で赴いたとき、スカルノはしばしば組まれているプログラムを抜
け出してその地方の画廊やパサルスニに掘出し物を探しに行った。大統領宮殿を飾るため
の美術品の多くはスカルノが購入を決めた。自分が持っている審美感を数ある宮殿に反映
させることがかれの悦びにもなった。スカルノは単なる芸術愛好家にとどまらず、インド
ネシア国民への芸術プロモーターになり、芸術家のためのパトロンになった。

スカルノは1950年代に、かれが日々接触する周囲の大臣や実業家らに美術作品を買う
ように勧めたそうだ。その結果が1950〜60年代に出現したコレクターたちだ。たい
ていが大統領宮殿に出入りする実業家や政府高官たちで、そのリストは次のような名前で
満たされている。
Tjio Tek Djien, Mardanus, Alex Papadimitrou, Sunaryo Umar Sidik, Adam Malik, PK 
Oyong, Oei Boen Po, Kosasih, Nie Swan Tie, Tan Sioe Hong, Oesman Laban, Santana, 
Hendra Hadiprana, Harris, Ong Pek Koey...


スカルノは画家たちのためにスタジオを建てることを希望し、実業家チオ・テッジンがそ
れに応えてジャカルタ市内チデン地区に大きいスタジオを開いた。たくさんの画家がそこ
に集まり、1日1作品を仕上げて1千ルピアの報酬をもらった。

そこで描かれた作品はインドネシア全国の画廊に分配されて販売された。当時定評のあっ
た画廊はジャカルタのBanowatiやバリ島サヌールのGaleri Pandyだった。James Clarence 
Pandyは最初旅行社トーマス・クックのツアーガイドだった人物で、スカルノの意志を受
け止めてサヌールに画廊を開き、バリ島在住画家の作品を販売した。

スカルノはまた、大統領宮殿嘱託画家の制度を設けた。召し抱えられたのはかれらだ。
1950−1960年 Dullah
1961−1965年 Lee Man Fong
1961−1968年 Lim Wasim

一見すると昔の王宮召し抱えの絵師のようにイメージしてしまいそうになるが、かれらの
仕事はただパトロンの求めに応じて絵を描いていればよかったのでなく、宮殿所蔵の絵画
コレクションのメンテナンスが日常業務の中に含まれていた。それは一種の職人作業であ
り、職人にもなれる芸術家という性格の人間ばかりでないことは世に明らかだろう。

スカルノはリー・マンフォンをドゥラの後任に指名したもののかれはそういうことに向い
ていないという話になって、最初はリム・ワシムがその助手に任じられた。そして最終的
にリム・ワシムがリー・マンフォンを後継することになってしまったのである。[ 続く ]