「インドネシア大統領パレス(51)」(2024年12月05日)

スカルノはオランダ人から移譲された空っぽの宮殿を絵画や像などの芸術作品で満たした。
しかしスカルノの芸術愛好癖がそのときに開眼したということでは決してない。スカルノ
が大統領になるずっと前から、かれの芸術好きは仲間たちの間で知られていたと語る声も
ある。

たとえば1945年8月17日に撮影された、自宅の表でかれが独立宣言を読み上げたと
きの写真の中に、スカルノの後ろの壁にHenk Ngantungの描いたMemanahと題する作品がか
かっているものがある。

その絵は1943年にスカルノが自分で見つけたものだ。うまい画家がいるという話を聞
いたスカルノがヘン・ガントゥンのギャラリーを訪れたところ、矢を射ている男の姿を描
いた作品が未完成状態で置かれていた。射手の腕のモデルがいなくて未完成になっている
とヘンが言う。
「それじゃあわたしがモデルになるから完成させてくれ。それをわたしが買う。」と言っ
てスカルノはヘンに仕事をさせ、そして分割払いにしてもらってその絵を持ち帰ったそう
だ。

スカルノはヘンの芸術感覚を高く評価してかれをジャカルタの知事に任じた。最初はまず
スマルノを1960〜64年の知事に任じたときにヘンを副知事に抜擢し、そして196
4年8月27日から1965年7月15日の間、ヘンを知事に引き上げてジャカルタをも
っと審美的な都会にするようにさせた。しかし芸術家の首都知事を場違いとして反対する
声も強かった。G30S政変の中でヘンは共産党信奉者であると裁判もなしに断罪され、
迫害を受けて社会からの疎外と貧困の中で生涯を終えた。


あるインドネシアンアート収集家はスカルノの存在について、自分がコレクションを楽し
んだだけでなく、スカルノはインドネシアの芸術家たちにとってのパトロンでもあった、
と述べている。「インドネシア人が作った絵画などの造形美術作品をスカルノは実業家・
大臣・外国人大使たちに積極的に勧めた。かれはその時代のインドネシア人芸術家の庇護
者をもって自らを任じていたにちがいあるまい。」

スカルノはその時生きて活動している芸術家の作品を買うことに努めた。その方針を大統
領宮殿官房は今でも続けているそうだ。スカルノ自身は自然派の画風を好んだ。かれが美
女をどれほど愛していたかは、スカルノコレクションの写実的な美人画を見ればよく判る。
多分それを証明するのがバスキ・アブドゥラの百点を超える作品だろう。ドゥラの数十点、
スジョヨノの十数点と比べれば歴然なように思われる。

G30S事件後のしばらく後まで、インドネシアのアート市場は灯が消えたように寂れた。
1970年代に入ってやっと復活が始まり、新しいコレクターたちが出現して市場が活発
さを取り戻した。マグランのOei Hong DjienやジャカルタのDeddy Kusumaを筆頭にして、
Sumican, Sofjan Ismail, Ciputra, Suteja Neka, Agung Rai, Nyoman Rudana, Tossin 
Himawan, Saiman Ernawan, Pia Alisjahbana, Tjokroatmodjo, Arifin Panigoro, Omar 
Abdala, Somala Wiria, Putu Rabin, Budi Setiadharma, Robby Djohan, Henry Pribadi, 
Ida Bagus Tilem, James Riady...といったお歴々の名前が並ぶ。

90年代以降に登場したコレクターたちは今でも健在だ。Rudy Akili, Edwin Rahardjo, 
Poppy Setiawan, Biantoro Santoso, Irsan Suryaji, Sanyoto, Surya Iskandar, Putra 
Masagung, Sardjono Sani, John Andreas, Alex Teja, Gunawan Yusuf, Hartoko...

ウイ・ホンジンはコレクションの動機について、絵画や像を買うのはそれが好きだからだ
と語っている。かれは国内で制作されたものだけを収集し、今では1千点のコレクション
を誇る大収集家になっている。言うまでもなく、ビジネスマンにとっては価値が上昇する
資産という側面も無視できないだろう。[ 続く ]