「インドネシア大統領パレス(52)」(2024年12月06日) ヨグヤカルタのグドゥンアグン宮殿にはハジ ウマル・サイッ・チョクロアミノトやラデ ン アジュン カルティ二の肖像画がある。サレカッイスラムの設立に加わったチョクロア ミノトはスカルノ初代大統領と密接な人間関係を持っていた。なにしろ、スカルノの最初 の舅になった人物なのだから。 スカルノが19歳のとき、かれはチョクロアミノトの長女シティ・ウタリと結婚した。し かしこの若い夫婦は長続きしなかった。結婚生活は三年間で終わりを告げ、スカルノは1 2歳年上のインギッ・ガルナシと結婚して20年の間、このただひとりの妻を愛した。イ ンギッはスカルノの子供を産めないことを苦にし、自分より35歳年下のファッマワティ を娶るようにスカルノに勧めて離婚した。スカルノがポリガミに向かうようになったのは ファッマワティとの結婚生活が10年を経過してからだ。 スカルノより19歳年上のチョクロアミノトの座像を描いたのはアファンディだった。襟 なしの白色シャツにサルンを履き、赤いペチをかぶったチョクロアミノトは脚を組んで椅 子に座っている。白シャツに黒上着と蝶ネクタイでブランコンをかぶった直立姿勢のサレ カッイスラム指導者の写真とはかけ離れた印象だ。 トゥルブスの描いた、髷を結い緑色のクバヤを着ているカルティ二のポートレートは、正 面を鋭く見つめている眼と微笑みの消えた口元がこの人物の強い意志を示しているように 見える。スカルノがヨグヤカルタ時代に描かせたそれらの絵画は、その時期にスカルノを 取り巻いていた状況がかれにもたらしていた心情を反映させている鏡かもしれない。 ヨグヤカルタに首都が移され、グドゥンアグン宮殿に住むようになってからほどなく、ス カルノは宮殿奥の大広間に芸術家たちを招いて芸術に関する討論を行うことを始めた。そ してインドネシアの英雄の姿をスカルノは画家たちに描かせ、その大広間に画家が持って きた作品を買ったのである。 戦意高揚のための宣伝活動の一環とそれを見ることもできるだろう。スカルノが抱いた祖 国の「植民地からの解放=独立」の思いが、同じ目的のために実際の戦闘を過去に行った 英雄たちの霊と交流したことをスカルノは洩らしたことがある。 「昔の時代に生きた三人の英雄、トアンク イマム ボンジョル、ディポヌゴロ、テウク ウマルの生き方と自己犠牲に対してインドネシア民族が尊崇の心を抱き続けていることを わたしは心底から感じた。」 スカルノは画家たちに描かせた民族英雄の肖像画を独立宣言記念日式典でのスピーチの際 の小道具にも使った。第二回目の式典では、ディポヌゴロの肖像画を木製の架台に置き、 トゥンク チディティロの肖像画を後ろの壁に掛けさせた。 スカルノが描かせた民族英雄は上の人物に加えて、フスニ・タムリン、ドクトル ストモ、 ドクトル チプト・マグンクスモ、ドクトル ワヒディン・スディロフソドたちだった。そ れらの絵画はたいていキャンバスに油絵で描かれている。 英雄のポートレートの他にも、戦場で行われている生死を賭けた闘争に従事しているイン ドネシア人の姿をスカルノは画家たちに描かせた。Persiapan Geriljaと題するドゥラの 作品はオランダ軍と対決する準備を行っているインドネシア人闘士たちの姿を描いたもの だ。ドゥラはそのとき、ヨグヤカルタのグヌンキドゥルで行動しているゲリラ戦士たちの 姿をキャンバスに写した。画面に登場している男たちのほとんどが武器を手にし、中には 箱の中身を調べている者もいる。多分弾薬箱なのだろう。兵士の制服を着ていなくても、 その表情には満々たる戦闘意欲が浮かんでいる。[ 続く ]