「インドネシア大統領パレス(53)」(2024年12月09日)

Laskar Rakjat Mengatur Siasatと題するアファンディの作品には、作戦を練っている男
たちの後ろの壁にMerdekaの文字が大書されている。この作品は対オランダ独立闘争の戦
意高揚のためのポスターとして作られたものをスカルノが木製フレームに収めて宮殿の壁
に飾ったと言われている。

スジョヨノの作品Sekko(Perintis Gerilja)はインドネシア人ゲリラ戦士がヨグヤカルタ
のプランバナン寺院を横切っているシーンを描いたものだ。戦争のために寺院構造物の一
部が崩壊している。銃を手にしてひとり、崩れた古代遺跡を通り抜けようとしているゲリ
ラ戦士の情景は見る者に静寂を感じさせている。

この画題Sekkoとは日本語「斥候」のことだ。部隊が進軍中に、前方の敵情や地形をひそ
かに偵察するためにひとりあるいは少数の兵に与える特別任務であり、敵に発見されない
かぎり戦闘をしないのが任務の基本に置かれている。

この言葉は綴りおよび発音がsekoに変化してインドネシア語に摂りこまれた。インドネシ
ア語で偵察行動を行う者はpengintaiと呼ばれているというのに、KBBIではその語義
がpeninjau, mata-mataと記されている。

別のインドネシア語資料にはセッコーという日本語の解説として、「全部隊のために道を
切り開く最前衛の兵士」という意味が述べられており、perintisの語感が強く漂っている。
元々は郷土防衛義勇軍ペタでの戦術指導の中でインドネシア人に教えられた言葉だろうと
思われるものの、ペタ出身者がたくさん現存しているその時期に言葉の意味がそのように
変化した事実を見るかぎり、言葉というものがいかに絶対性を持ちにくい、使う人間によ
って変幻自在に変化するものであるか、ということにわれわれは気付かされるのではある
まいか。わたしの言語疎通不能論はそこに由来している。


グドゥンアグン宮殿が共和国の最初で唯一の大統領宮殿であった時期に描かれた闘争をテ
ーマにする絵画の中で、スジョヨノが1947年に制作した作品Kawan-kawan Revolusiに
描かれたひとびとの似顔絵は、その闘争の中に身を置いて現実に生命のやりとりを行った
ひとびとの顔だ。中には戦場で散った者もいる。かれらは名前こそ残さなかったものの、
間違いなく民族英雄たちのひとりなのだ。

その中に、黒色ベレーをかぶって中央あたりに描かれている、ブン ドゥラと呼ばれた人
物がいる。あるときの戦闘で、かれはインドネシア人の考案した手榴弾geranat gombyok
の投てき手を務めた。グラナッゴンビヨッというのはコーン型をしている鉄製の短かい筒
に火薬粉と化学薬品を入れ、鉄くぎや鉄の破片を詰め込み、尻に紐を集めて垂らした房が
付いている手作り兵器であり、ゴンビヨッというのは房を意味するジャワ語だ。ジャワ人
は手りゅう弾まで自製していたのだ。

ブン ドゥラはその任務のために腰に何個もグラナッゴンビヨッを吊り下げていた。やっ
てきたオランダ軍戦車隊の行進にゲリラ兵が襲い掛かり、ブンドゥラも手りゅう弾を投げ
ようとした。そのときに事故が起こり、爆薬が作動し始めた。それを知ったかれはそのゴ
ンビヨッを手にしたまま即座に一番近い戦車めがけて体当たりを行ったのだ。腰に提げて
いたゴンビヨッが一斉に爆発し、その戦車は粉砕された。そのときに4台の戦車が破壊さ
れたと述べている記事もある。

グドゥンアグン宮殿の壁に掛けられていたこの絵を、ジョクジャを占領したオランダ軍人
が引き裂いたという話が語られている。自分たちを攻撃してくる、憎むべきインドネシア
人ゲリラのリーダーたちの顔をオランダ軍も知っていたということをそれは示しているよ
うに思われる。[ 続く ]