「インドネシア大統領パレス(54)」(2024年12月10日)

この絵が完成したとき、スカルノは手元不如意になっていたためにスジョヨノに支払うこ
とができず、おまけにスカルノがスマトラ島に流刑されたためにスジョヨノはスカルノが
1949年に解放されてジョクジャに戻って来るまで、長期のツケになっていたという話
もある。

誕生したばかりの共和国の首都がジャカルタからジョクジャに移されたため、ジャカルタ
の住民の中にジョクジャに引っ越すひとびとがたくさん出た。その中に画家をはじめ芸術
家たちの姿も混じっていた。スジョヨノ、アファンディ、ヘンドラ・グナワン、スダルソ
ノ。いやそればかりか、スマトラの若い画家たちも共和国の新首都に移って来た。ティノ
・シディン、ダウッ・ユスフ、ナスハル、ナシャ・ヤミン・・・

ジョクジャに移ったスカルノは、民族の悲願をかけた独立闘争に画家たちを参加させるこ
とを考えたようだ。銃を持って敵と戦う代わりに画筆でインドネシア民族一般大衆の戦意
を高揚させる。そのスタイルの宣伝は日本軍政時代に行われていたものでもある。スカル
ノはヨグヤカルタ地元の画家ハリヤディ・バスキ・ルソボウォ、スロモ、スディアルジョ、
アブドゥッサラムたちに加えてかれら移住組に対しても、分け隔てなく国の独立を維持す
るための闘争に加わるよう誘った。

ジョクジャに集まってきた画家たちはSeniman Indonesia Mudaという名の組織を作ってス
カルノの政治的な要請に応じた。本部はクラトン北アルナルンのプルカパラン通り7番地
に置かれた。グドゥンアグン宮殿とは目と鼻の先だ。スジョヨノがこの組織を統括した。

SIMに参画した画家たちは続々と独立闘争に関わる作品を絵画やポスターの形で制作し
た。また、独立闘争に関連性を持つ重要な事件を自分の目で見るために、かれらは戦場に
赴くことさえ辞さなかった。その種の活動は1942年以来日本軍がインドネシアで行っ
ていたものだった。日本軍は従軍画家や従軍作家を占領地に連れてきていた。

最初はスカルノと画家たちとの間の交流がその動きを開始させる原動力になったが、ほど
なく国がその動きを定着させるようになった。情報省が国費で宣伝用の絵画を画家に注文
する仕組みが始められたのである。ドゥラのSekkoやPersiapan Geriljaは1947年にグ
ドゥンアグン宮殿の壁に掛けられる前、宮殿の外のあちこちに展示されて戦場にいる同胞
の姿を民衆に示すことに使われた。


1946年にグドゥンアグン宮殿での生活を始めてから間もなく、スカルノが画家たちを
宮殿に招いて歓談し、そして民族英雄のポートレートを描くように勧めたことは上で述べ
た。そのころに制作された作品からは市場の人気や一般大衆の好みといった媚びの要素が
排除されていて、制作者の真摯な心情が強く感じられる。

言うまでもなくその時期のスカルノは「植民地解放=民族独立」への意欲が日常生活のす
べてを占めていたはずであり、自分の暮らしの場である宮殿の中をもその心を示す色合い
で塗りこめようとしたのは明白だ。かれは宮殿内の壁や空間の装飾を自分の審美性に従っ
て行ったものの、飾られた作品は共和国の国民である画家たちが描いた、闘争を主題にす
るものばかりだった。

グドゥンアグン宮殿が持っているコレクションには、その当時の国民の中にあった優れた
画才がその時代を反映して作り出した優秀作が集まっているのである。コレクション総数
は495点にのぼり、そのうちの9割が宮殿敷地内の諸館に飾られている。しまわれてい
る1割はたいてい商業的な作品だそうだ。宮殿のコレクションはABCにグレード分けさ
れ、芸術性の高さと国家的意義の高さがその評価を決めている。Cグレードは商業色の濃
い作品であり、しまわれている1割がそれに該当している。[ 続く ]