「傘と笠(4)」(2024年12月10日)

ソンソン捧持人はソンソンを使って主人の身を守る役目を担う。主人が公的な行為を行う
ときには主人の権威を示すためにその近くに侍った。貴族同士が会見するとき、それぞれ
のソンソン捧持人がそこにいるのは当然のことだった。ソンソン捧持人は、昔の日本の殿
様が使った太刀持ちのような職務に比することができるかもしれない。

別の研究者によれば、天蓋の表と裏をすべて黄金色に塗ったsongsong gilap terusが王の
外出時にその供をしたそうだ。ジャワ封建時代の海岸地方でソンソンクニンはパゲランや
アディパティの称号を持つ地方領主Bupatiの、マハラジャにつながる王族としての権威を
表し、緑色の地に黄色の筋を入れたソンソンはブパティの下について補佐するウェダナな
どの小領主を示した。ウェダナを補佐する臣下たちは青・深紅・黒のソンソンを使った。
祝宴が行われるとき、その会場の表にソンソンが置かれて主催者の社会的な威厳を示すシ
ンボルにされた。

インドネシアの対オランダ独立闘争が1945年末ごろから始まったとき、建国の父たち
はジャワ島内を仕切っていた封建構造に革命の火をつけた。貴族層も平民と肩を並べて共
和国を立ち上がらせなければならないのである。生まれや血筋が社会的な地位を決める国
は共和国になれないのだ。インドネシアの独立闘争が独立革命と呼ばれたことの根源がそ
こにあった。旧貴族層はソンソンを持ち歩かなくなり、旧体制を続けようとする保守的貴
族の多くは粛清された。

そのようにしてソンソンの歴史に終止符が打たれたのである。「竹槍が傘を突き刺した」
とその現象を表現した者がいる。ジャワ文化は独立闘争によって大きい転換を余儀なくさ
れた。ジャワ島の傘も、営々と築いてきたその歴史を大きく変化させた。ジャワ人にとっ
て、傘は日射と雨を防ぐ個人の道具に変わっていったのだ。


1619年にVOCがジャヤカルタを征服して領地にし、そこにバタヴィアの町を作った。
それまでアンボンに置かれていたVOCアジア本部はバタヴィアに移り、オランダ人はジ
ャワ文化との深い接触をそのときに開始した。そしてバタヴィアの町でも、傘が権威権力
を象徴するものとして使われるようになった。北国に住むオランダ人にとっての傘とは何
だったのだろうか?オランダ人がジャワの慣習を見倣うとはいったいなにごと?

ヨーロッパに伝わった傘は最初、やはり権威権力の象徴とされ、最高権力者が自分のステ
ータスを示すための持ち物にされたようだ。カトリック教会にはローマ教皇の傘という品
物がある。全ヨーロッパの各地方でカトリック教会組織の最高位に着いたひとびとは傘を
使う資格を教皇から与えられた。12世紀にはヴェニスの国政を統べるドージェ(元首)
が時の教皇アレクサンダル3世から傘を使うことを許された故事もある。

しかしそれから数百年後にヨーロッパでは傘が民衆のファッションアイテムに変化してい
った。1533年にはメディチ家のカトリーヌがオルレアン公爵との結婚の際に持参した
傘を披露して評判になった話が残されている。民衆の、特に女性たちが、自分で傘を持っ
て外出する姿がヨーロッパの中では普通のものになった。着飾った貴婦人や若い娘たちが
日傘を持ってその姿を町中に示すようになったのである。オランダのことはよくわからな
いが、まさかオランダとて例外ではあるまい。[ 続く ]