「大郵便道路(1)」(2024年12月12日) 人間が手紙を送り合うことは大昔から行われてきた。たいへん距離の離れた場所の間で手 紙のやり取りをする場合、手紙を運ぶ人間が必要になる。そのためにそれが商売を生み出 した。しかし同じ需要を行政機構も抱えており、行政はたいてい独自にその通信制度を構 築した。そして最終的に世界の各国各地で郵便制度が築かれた。 VOCの時代、バタヴィアとオランダ本国間の文書通信は帆船の航海によって行われたの で平均9カ月の日数を必要とした。手紙を送ってからその返事が届くまでに最低で1年半 かかったということになる。バタヴィアとマルクの間ですら片道4カ月を要した。 1746年6月20日にバタヴィアで最初の新聞、Bataviase Nouvellesが発行された。 それはグスタフ・ヴィレム ファン イムホフ第27代総督が勧めたまったく新しいプロジ ェクトだったのだが、VOC重役会ヒーレン17のお気に召さなかった。ヒーレン17は その新聞を見て即座に発禁令をバタヴィアに送ったものの、バタヴィアでは禁令が届くま での一年間その新聞が発行され続けた。 20世紀初めごろまで航空郵便はまだ存在しなかったから、東インドとオランダ本国間の 文書や物品の郵便物はすべてタンジュンプリオッにやってくる船が運んだ。バタヴィアの オランダ人社会では郵便物を運んでくる船の入港日をみんなが知っていて、その日を郵便 日と呼んでいた。その数日後には自分が待っているオランダからの手紙を郵便配達夫が持 ってくるはずだという期待がそこに込められていた。 郵便物に貼られる切手は1840年にイギリスでスタートした。オランダもそれに倣って 1852年にオランダ国王ヴィレム3世の肖像を描いた切手を2百万枚印刷し、それがオ ランダ東インドにも運ばれた。インドネシアで初めて郵便物にヴィレム3世切手が貼られ たのはなんと1865年だった。 郵便制度が普及してプリブミまでが大勢利用するようになると、バタヴィア政庁は大通り 沿いや住宅地区に郵便ポストをたくさん設置した。そして郵便自動車がバタヴィアの町中 を朝と午後の二度周回し、ポストに投函された郵便物を回収してパサルバルの郵便局本庁 に運んだ。 オランダ人が郵便ポストをbrievenbusと言っていたことから、プリブミは郵便ポストのこ とをインドネシア語化してbis suratと呼んだ。オランダ語のbusは乗合バスのことでなく、 元来が函や箱を意味していた。オランダ語の乗合バスはautobusなのである。インドネシ ア語のビススラッと乗合バスの間には何の関係もない。 またオランダ人は昔busという綴りをビュスと発音していたため、インドネシア人はそれ を音写してbisと書き、ビスと発音したのだが、しかし文明化原理が「音より文字」をあ りがたがる心理傾向を人類にもたらしたことから、インドネシア人はbusという綴りをそ のままブスと呼ぶようになり、今では乗合バスの呼び方がブスbusとビスbisの二通りで使 われている。 インドネシア共和国の郵便業務システムはオランダ時代に作られたものがそのまま197 0年代ごろまで続けられた。70年代ごろでもビススラッはジャカルタの随所に見られた し、数百人の郵便配達夫が自転車で自分の担当地区に郵便物を届けに回る姿も伝統的な日 常性の中にあった。 トゥカンポスと呼ばれた郵便配達夫が配達業務に使う乗り物が自転車からオートバイに変 わったとき、ガソリン経費を着服するために郵便物不配が増加したという話もある。自転 車を漕ぐよりもオートバイのほうが楽で速いから、経営者は郵便配達夫の担当地域を拡大 させて人員合理化を図ったのだろう。ところが、オートバイに乗ったトゥカンポスたちの 中に「楽」を目指して突っ走る者が出現したにちがいない。 人間が楽をしようとするとロクでもない結果になるという哲理の一端がそれかもしれない。 近代以降、文化文明の利器を種々発明して人間が楽になることを追求してきた人類の行末 が懸念されるのである。 ちなみに、ヌサンタラ最初の電信線は1856年にバタヴィア〜バイテンゾルフ間に設け られた。続いてバタヴィア〜スラバヤ間が、チルボンとスマランを経由して1858年に つながった。国際電信通信は1859年にバタヴィア〜シンガポール間で始まっている。 電話は1882年に開始された。交換台がガンビル・ジャティヌガラ・バタヴィアコタに 置かれ、電話をかけるひとはそれらの交換台をまず呼び出して交換手に電話をつないでも らわなければならなかった。[ 続く ]