「大郵便道路(2)」(2024年12月13日)

VOCが郵便制度を開始したのは1746年8月28日だった。制度の開始を命じたのは
ファン イムホフ第27代総督で、カリブサール西岸のVOC造船所に郵便局がオープン
した。この郵便局は銀行と質屋を兼ねていた。華人街騒乱からまだ間もない時期であり、
バタヴィア城市内住民の中に、騒乱の被害が重かった家庭も少なくなかったようだ。

この郵便制度では、文書通信はバタヴィア城市内住民とオランダ本国住民間、およびアジ
アの他のVOC拠点に駐在するVOC社員との間のものに限られていたようだ。バタヴィ
アから発信される手紙は大きな箱に集められ、上級商務員がその内容をチェックした。バ
タヴィアに送られてきたものは裁判所執行官が着信の記録を作り、手紙はバタヴィアの外
来者宿舎Stadsherbergに展示された。

果たしてその制度をインドネシアの郵便の事始めと呼んで良いのかどうか、わたしには判
らない。ファンイムホフが興した郵便制度の最初の段階はVOCという会社の社内通信制
度でしかなかったのではないかという気がわたしにはするのだが、インドネシアの「郵便
の日」は1746年8月28日のその故事に由来している。

しかしファン イムホフは非VOC社員のための郵便制度にそれを拡大した。4年後には
スマランに郵便局が設けられ、主に華人であるカラワン、チルボン、プカロガンの商人た
ちのビジネス通信がこの制度に乗るようになり、郵便の到達範囲はさらにスラバヤやスラ
カルタ/ヨグヤカルタにまで広がって行った。


ファン イムホフの時代から半世紀が経過して、ヘルマン・ヴィレム・ダンデルス第37
代総督が建設を命じたGrote Postweg(大郵便道路)が歴史に登場する。この道路のおか
げで郵便物ばかりか、人間の移動にたいへんな効率向上が起こり、ジャワ島北岸部の旅は
速くて楽なものになった。

その道路に郵便の名称が冠せられたのは、道路が通過する主要都市とその近辺に50カ所
の郵便局が設けられたことによる。ダンデルスが目指した行政府内の迅速な情報通信を実
現させるための仕組みがそれだった。この大郵便道路の上を郵便馬車が毎日走った。


ジャワ島西端の港町アニエルと東端の港町パナルカンを結ぶ1千キロの道路建設は、陸上
移動の劣悪さを克服するためにダンデルス総督が命じたものだ。ダンデルスはイギリスの
侵略からジャワ島を防衛するようフランス皇帝ナポレオンに命じられて東インドに赴任し
てきた。もちろん辞令はオランダ国王ルイ・ボナパルトが出しただろう。皇帝の名前で属
国の軍人に辞令が出されるはずがあるまい。

ジャワ島北岸海域はイギリス軍船の支配下にあった。ジャワ島北岸の諸港がイギリスに海
上封鎖されていたので、外来船の寄港はもとより、地元の船の往来すらできなくなってい
たためにダンデルスはスンダ海峡のアニエル港に1808年1月1日に上陸した。

ダンデルスが大郵便道路を建設させたのは、海上交通が麻痺している状況への対策でもあ
ったが、しかしもっと根本的な問題として、ジャワ島の陸上交通があまりにもひどい状態
であったためにかれがその改善を命じたという面も小さくない。

ジャワ島占領を目指して侵攻してくるイギリス軍を迎え撃つために、陸上での軍隊の移動
に迅速性が求められていた。アニエルに着いた新総督はバタヴィアへ馬車で行くのに4日
を費やしたのだ。現代地図でのアニエルとジャカルタ間の距離はおよそ125km。

イギリス軍がジャワ島北岸のどこに上陸しようが、そこへ迎撃軍が迅速に移動して敵を海
に追い落とさなければならない。敵の上陸地点に何日もかけて到着するようでは、敵はそ
の間に頑強な橋頭保を築いて足場を確保するに決まっている。[ 続く ]