「傘と笠(7)」(2024年12月13日) デ フラアフはバタヴィアの上流階層の女性たちを、わがままなプリンセスにたとえた。 「いつもだれかが自分の傍にいて自分をあやし、世話してくれなきゃイヤ!」 飲み物を飲んでいたときにストローが床に落ちると、召使を呼んでそれを拾わせる。何か を命じたときに奴隷の召使がノロノロしていれば、プリンセスの怒声が爆発する。運が悪 ければ、ノロマな奴隷は鞭打ちの仕置きを受けることになる。 バタヴィアの女たちのそんなプロフィールはまるで精神の成熟が止まってしまった貴婦人 の趣を呈していた。そんな人間像をオランダ本国で見つけることはまず不可能だ。それは オランダ文化でなく、アジア文化あるいはポルトガル人が作ったアジアメスティ−ソ文化 に染まった人間の振舞いなのだから、と現代のさる大学教授はコメントした。 バタヴィア城市内の住民というのは、基本的にVOCの現地駐在員に該当している。駐在 員の契約期限を終えてからも帰国しないでバタヴィアに住み着く者がたくさんいた。VO C社員にならなくても、バタヴィアをヨーロッパ人の都市にするために都市生活に必要な 技能を持つヨーロッパ人が移住することも歓迎された。しかし、バタヴィア城市というの はVOCが持った領地なのであり、VOCのアジア総督がその領地を支配する責任者だっ たのである。 総督にとって、領地住民の贅沢華美の競争は目に余るものになっていたようだ。1647 年には、奴隷に傘を持たせて外出時に日陰を作らせることが、一部の高官を除いて禁止さ れた。VOCの現職高官以外はソンソンの真似事ができなくなったのである。もちろん、 自分で傘を持つのであれば自由だ。 1750〜1761年に第28代総督を務めたヤコブ・モッスルはバタヴィア住民の作法 規定を定めた。その中に、会社の下級商務員以下の者は傘を使ってはならないと定められ ている。しかし中級以上であれば傘を使って良く、更には奴隷に傘を持たせることまでも が認められた。それは1647年以来の規定が緩和されたことを意味している。 その一方で、ヨーロッパ人女性は傘の使用に関する規制の対象外に置かれた。ヨーロッパ の習慣をバタヴィアで禁止するわけにはいかなかったのだろう。同時に、下級軍務社員の 妻、プリブミ兵士、華人、ムスリムなども、自分で持つことを条件にして傘の使用が許さ れている。 モッスルの作法規定はかつて贅沢競争三昧の対象にされていたあらゆるものに及んだ。馬 車を引く馬の数は最大が6頭で、それは総督だけの特権にされた。馬車の窓ガラスも総督 だけのものだった。ボタン付きの上着も上級商務員以上にのみ使用権が与えられ、おまけ に上位者から許可をもらわなければならなかった。 オランダ東インドにいるヨーロッパ人たちにとって、ソンソンによる権威権力の誇示は奴 隷がいてこそ成り立つものだったから、奴隷制度が廃止されたときに最高位者以外の者に よる実行が不可能になったはずだ。 ジャワ王宮のソンソンは王宮の使用人が掲げるものであり、abdi dalemと呼ばれている王 宮使用人は奴隷ではない。ジャワ文化のソンソンには最初から奴隷がからんでいなかった のだ。そこに、ヨーロッパ人が模倣したジャワ文化との本質的な違いがあった。[ 続く ]