「大郵便道路(3)」(2024年12月16日) ダンデルスはバタヴィアで総督業務を開始して一段落させると、1808年4月29日に ジャワ島内の視察の旅に出た。最初の目的地はスマランであり、かれはスマランへの行程 をプリアガン経由で行った。なぜなら、バイテンゾルフ〜スカブミ〜チアンジュル〜バン ドゥン〜スムダン〜チルボン〜トゥガル〜プカロガン〜スマランというルートがVOCに とってはウエイトがきわめて重いルートになっていたためだ。 現在、国道1号線になっているジャカルタ〜ブカシ〜カラワン、そしてインドラマユから チルボンに至るルートはVOCにとってはるかに重要性の薄い地域になっていた。大郵便 道路が西ジャワの町々を縫って東に向かったのはそういう事情があったのだ。 だからダンデルスの大郵便道路がすっぽりと現代インドネシアの国道1号線になることが 起こらず、大郵便道路のチルゴン〜ジャカルタとチルボン〜パナルカン(シトゥボンド) 区間だけが国道1号線になっている。とは言っても、今の国道1号線の多くが自動車専用 道に移されてしまったから、モータリゼーション後の国道1号線と比較することはあまり 意味をなさないだろう。 ちなみにジャカルタ〜ボゴールは国道2号線、チアウィ〜スカブミ〜チアンジュル〜バン ドゥンは国道3号線、バンドゥン〜スムダン〜チルボンは国道5号線だ。 現代インドネシアのジャワ島国道1号線はスマトラ島への渡海フェリー港であるムラッか ら始まり、チルゴン市の脇を抜けてセランに入り、再びセラン市の脇を抜けてタングラン 県内の要所を通り、タングラン市のはるか南方を抜けて西ジャカルタ市のトマンインター チェンジに達する。そのルートはジャカルタ-ムラッ自動専用道と呼ばれていて、現在の 国道1号線がそこにオーバーラップしている。 トマンインターを越えた国道1号線はそのまま直進してジャカルタ都内環状道路のタマン アングレッインターで環状道路に入り、ジャカルタ北海岸部を回ってからタンジュンプリ オッ港をかすめて南下し、チャワンフライオーバーで東に方向転換してチカンペッ自動車 専用道に入る。 昔のチカンペッ自動車道の終点だったチカンペッゲートまで、現在の国道1号線は自動車 専用道が続いているのだ。人間が徒歩や自転車オートバイで国道1号線を通るのは不可能 になっているのである。 ところが昔のチカンペッゲートからさらにトランスジャワ自動車専用道が東ジャワの果て までつながったというのに、国道1号線はその先まで伸ばされなかった。そりゃそうだ。 国が作った道路でないのだから。 国道1号線はチカンペッゲートで一般道に降りると北上してジョミン三叉路に向かい、ジ ャカルタのジャティヌガラからブカシ〜チカラン〜カラワン〜コサンビを経由してチカン ペッにやってくるパントゥラ(ジャワ島北岸街道)に合流する。 このジョミン三叉路で国道1号線は東に向かう道路に入るために、自動車は東から来る車 を通してやらなければならず、十数年前は大渋滞が当たり前の地点になっていた。ジョミ ン三叉路でうまく東行き車線に乗ってからは、パマヌカン〜エレタン〜カンダンハウル〜 ロッブヌル〜パリマナンを経てチルボン市のバイパスであるパリマナン-カンチ自動車道 に入って行く。 カンダンハウルの手前にあるエレタンという町は、日本軍が1942年に上陸したジャワ 島三地点のひとつだった。カンダンハウルを越えてしばらく走るとロッブヌルの町がある。 ジャワ島北岸街道を何度も往来したわたしはその地名表示Lohbenerを目にするたびにその 言葉を口にして同乗者と笑い合ったものだ。ブタウィ語のLo bener.は「あんたが正しい」 という意味を表している。[ 続く ]