「傘と笠(9)」(2024年12月17日) ジャワでソンソンが姿を消し、自分で手に持つ伝統傘の時代に入ったとき、ソンソンが長 年にわたって培った文化が伝統傘に乗り移ったとジャワ文化研究者のひとりは語っている。 単なるモノが人間の精神に感応してスピリチュアルな磁力を帯びるのがジャワ文化の特徴 であり、伝統傘にもかつてのソンソンが持っていたスピリットが微細な分子になってへば りついた。 人間の死に伴って営まれる清めや祈り、そして埋葬という一連の儀式に、伝統傘も小道具 としての役割を担うことになった。傘をたたむと円錐形になる。地上から天上界を目指す 具象性をジャワのひとびとはそこに見出した。かれらは傘を、死者の霊に付き添ってナウ ンをもたらすものと考えた。紙と木竹で作られた傘は死者と共に埋められたり、あるいは 墓標のような形で盛り土の上に突き立てられた。金属製の骨を持つ傘を土に還る遺体と共 に埋めるわけにはいかないだろう。そこに伝統傘しか果たせない役割があったのだ。 往年のインドネシアで一世を風靡した女性歌手ティティ・プスパは伝統傘の思い出をこの ように物語った。かの女が子供時代を送った中部ジャワのトゥマングンとスマランでなじ んだ伝統傘は、天蓋がセメント袋紙、骨は竹、軸は木製で、天蓋には色が塗られて美しい 模様が描かれていた。傘を買うときはいつも色や模様のきれいなものを選ぶのが普通だっ たそうだ。 決して裕福な家庭に生まれたわけでないティティにとって、傘は一家の高価な道具のひと つだった。傘が多少壊れたりしてもすぐに買い替えることができなかったから、たいてい 使えなくなるくらいまで使うことが多かった。雨の日に使ったあとは、日光に当ててよく 乾かさなければならない。それを忘れると紙が破れたり竹が折れたりしやすくなる。 スラカルタ王宮地区内のバルワティ部落に住むミラさんは伝統傘について、大きな水瓶の 縁に立って傘を回しながら踊る傘舞と、死者の埋葬を飾る緑色の傘しか印象に残っていな いと語った。別の男性は、傘を開くときにバリバリととても大きな音がしたのをよく覚え ていると伝統傘の印象を物語っている。 ジャワ人の葬列が墓地を目指すとき、日よけのために傘を使うひとたちがおり、また遺体 にも傘が差し掛けられる。死者を埋めるとき、死者は傘と共に冥土に旅立つ。しかし金属 の骨で作られたモダン傘を手にしてその葬礼に加わる人はいない。そんなことをすれば、 埋葬というスピリチュアルな行事が持っている礼節観念に異様なとげが刺さることになる からだ。ジャワ人の伝統が作り上げた集団心理に埋葬という場で水をかける者は社会生活 における秩序と安寧の中の人間交際にハードルを与えられることになりかねない。 大量生産されるモダン傘の実用性が伝統傘の市場を奪ったとき、伝統傘の生産者はサバイ バルの道を探ることを余儀なくされた。そして伝統傘は装飾品としての機能を追求するこ とで現在まで生き残ることができた。舞踊の小道具・婚礼や割礼など祝祭の装飾品・伝統 儀式を賑わすためのもの・・・。それらの用途を詳細に区分し、適切なサイズに分けてや るとおよそ百種類になるそうだ。現代に生き残った伝統傘職人たちはそんなメニューを用 意して注文生産を行っている。装飾品であるために、美しさを傘に添えることが絶対的な 重要性を帯びることになった。 傘を美しい装飾品にするために、傘の天蓋に美しい色使いで幾何学模様や花の絵などが描 かれたために、伝統傘はpayung lukisという名前でも呼ばれるようになった。タシッマラ ヤ産のパユンルキスにスンダ語で「美しい」を意味するグリスという言葉が使われたこと から、payung geulisと言うだけでタシッマラヤ産の美しい装飾の描かれた伝統傘である ことがすぐにわかる。グリスと名付けられたのは、芸術的な美を感じさせるものだったか らだろう。 タシッマラヤで伝統傘の生産が始まった発端については、1930年代にチプダス郡パニ ンキラン村のムヒイという名の農夫が紙製の日傘を作って天蓋に美しい模様を描き、その 日傘を畑仕事への行き帰りに差してひとびとの注目を集めた話が語られている。[ 続く ]