「傘と笠(10)」(2024年12月18日)

それにヒントを得て共和国独立後のタシッマラヤに手作り傘を作る産業が興った。モダン
傘が普及する前の1960〜70年代にかけて、タシッマラヤの職人たちは毎日大量の傘
を生産し、パニンキラン村は黄金時代真っ盛りだったそうだ。ほとんどすべての家で毎日
伝統傘作りが行われていたというのに、今では限られた数の職人が手作りで少数の製品を
作っているだけ。2015年の話では、たった4人が残っているばかりだそうだ。

タシッマラヤのパニンキランでパユングリスの製造会社を2007年ごろに立ち上げた事
業者のひとりは、今では月産1千本の商いをしていると語っている。製品は紙でなく布を
使い、バティッ布あるいはラメ・ビロード・オーガンディなどの布に模様を描いたり、あ
るいは刺繍を使って美しくととのえている。

工房では12人の職人が傘の本体作り・布貼り・模様描きを分業している。製品は一本3
万から100万ルピアの値付けがなされて、全国各地の大都市に出荷されている。ブルネ
イと米国に輸出したこともあるそうだ。


中部ジャワ州クラテン県ジュウィリンの傘製造は19世紀に始まった。スラカルタ王宮の
使用人のひとりが王宮の儀式に使うソンソンアグンを作るように命じられたとき、自分だ
けで仕事をやりおおせなかったために、ジュウィリン出身のかれは仕事の手伝いをさせる
ために故郷から人を招いた。その仕事を手伝った者が故郷に戻ってから習い覚えた技術を
使って傘を作るようになり、ジュウィリン村はソンソンの産地になったという話が語られ
ている。

しかし別の、もう少し詳しい話によれば、19世紀にはジュウィリンのグルニにスラカル
タ王宮から派遣された者が経営するソンソン工場ができたそうだ。工場は後にクナイバン
に移転している。共和国独立を迎えたあと、新政府がそこを管理し、情報大臣と工業大臣
の管下に置かれて国有会社「民衆産業クリヤヤサ」と命名された。

だから政府直轄の本社機能はジャカルタに置かれたのだが、それが1966〜67年に中
部ジャワに移されて名前も「アネカヤサ」に改められた。ジュウィリン村の民衆産業であ
る伝統傘作りはその工場とは関係なく別個に発展して、生産品を「アネカヤサ」に納める
ようになった。「アネカヤサ」はジュウィリン村で生産される傘を各地に流通させるディ
ストリビュータになったようだ。

ところが輸入傘との市場競争に敗れて1974年に「アネカヤサ」は閉業した。ジュウィ
リン村の伝統傘産業は自立しなければならなくなったのである。1975年に村民のアッ
マッ・スマルランがパユンウィスヌという名の生産者組合を興して生産と流通を手掛け、
その成功を目の当たりにした他の生産者たちがそれを見倣って小規模な生産販売事業組合
を興すようになって今日に至っている。だが「アネカヤサ」を閉業させた市場の状況を覆
すのがもはや不可能事になっているのは明白だ。


ジュウィリン村で作られている伝統傘には大別してhalus傘とkasar傘がある。カサル種の
傘は埋葬や葬儀に使われるものと雨や日射を防ぐための実用傘を含んでいる一方、ハルス
種は結婚祝賀やホテルのデコレーションなど装飾を目的にした傘を指している。

しかし職人たちはまた別の区分を用いており、慣習儀式に使われるもの・日常生活で使わ
れるもの・装飾品として使われるもの、という三種類に区分する捉え方もなされている。
慣習儀式用としてはpayung temu, payung khitanan, payung siraman, payung manten, 
payung minyak, payung tari、日常生活用はpayung hujan panas、装飾用はいろいろな場
所に置いて飾られるdekorasiという内容になっている。

1950年代にジュウィリンの傘生産者は百軒を超えていた。ところが60年代に伸び悩
みがはじまり、産業に斜陽が差し込むようになった。2015年にはわずか11人の生産
者が残されているばかりだ。ジュウィリンの生産者のひとりは種々の伝統傘の生産につい
て、傘の柄・骨組み・スライドする開閉部・塗装・模様描きなどの工程が8人の分業で行
われ、ひと月の生産量はだいたい1千本だと述べている。[ 続く ]