「傘と笠(11)」(2024年12月19日)

バニュマス県カリバゴル郡の傘生産は1838年のカリバゴル製糖工場の建設と共に始ま
ったそうだ。紙製傘にはprahとmenuranの二種類があって、ムヌランは埋葬のために墓地
に向かう葬列で遺体に差し掛けるのに使われ、一方のプラは墓標を飾るものとして使われ
ると説明されている。これもジュウィリンと同じようにソンソンの生産から始まったので
はないだろうか。カリバゴルの伝統傘生産は1950年代から始まった書いている記事が
いくつかある。

生産品は県内をはじめ、バンジャルヌガラ・プルバリンガ・チラチャップ・クブメンの諸
県を席巻したそうだ。この地方もかつては伝統傘の生産センターとして天空の太陽のよう
に輝いていたというのに、2015年にカリバゴルで営業している傘生産者は7人になっ
てしまった。

カリバゴルの生産者のひとりであるスタルコさん30歳は先祖伝来の傘作り家業を継いで
日々、傘生産にいそしんでいる。スタルコの考案した伝統傘は天蓋の紙にバティッ模様が
描かれている。月産は3〜5コディ(kodiとは20個を一単位とする数え方)で売上高は
3百万ルピア程度にしかならない。というのも、かれはひとりで生産作業を行っているか
らだ。定職のない親戚の若い者たちに手伝うよう誘いかけたものの、ひとりとしてそれに
応じる者がいなかった。「若い連中はみんな傘作りを手伝って金をもらうよりも、無職で
ぶらぶらしているのを選択するんですよ。」スタルコはそう慨嘆した。

伝統傘は個人持ちが原則であるために天蓋が畳めることは不可欠な要素だと思われるもの
の、一方のソンソンはその必要性がなく、ましてや三層傘においては構造的に見て全部を
畳むことが難しそうだから、初期のソンソンは天蓋が広がったままだったように推測され
る。つまりは笠に柄を付けたものという姿が普通だったのではないだろうか。

そのソンソンの長い歴史の中で、畳めるソンソンがあったのかどうか、あったとすればい
つごろから始まったのか、その新案の契機はどうなっていたのか、もしもそこに雲氏の唐
傘がからんでいたのであればどこからそれがもたらされたのか、畳める伝統傘は畳めるソ
ンソンの発展形態だったのかそれとも雲氏の唐傘が畳める伝統傘の発端だったのか、そう
いった歴史の謎をネット内で探ってみたが、得られるものはなかった。簡単に答えが見つ
かる疑問ではなさそうだ。


日本の古い童謡のひとつに「お嫁に行くときゃ・・ひとりで唐傘差していく」という歌詞
の歌があることを思い出した。大勢の送り人に囲まれた花嫁が晴れの舞台を踏んで世間に
自分の一世一代の姿を示す場、そしてみんなから祝福を受ける場である花嫁道中のはずな
のに、「ひとりでお嫁に行く」とはまたどうしたことだろう?

この歌の歌詞では雨降りの夜の状況になっているから、傘がそこにあるのは花嫁を飾るた
めでなくて雨対策だったと考えられる。大正末期の日本人にとって傘は花嫁にとっての縁
起物ではなかったようだ。傘がないときは馬に揺られて濡れていくのだから、傘が常に花
嫁の晴れ舞台を飾る道具でなかったことがそこから判る。

現代日本の花嫁行列の写真を見ると頻繁に大きな傘が登場している姿が写っているのだが、
もちろん傘のない写真も見受けられる。傘が花嫁を飾るものというコンセプトは日本の伝
統の中にあったのか、それともニューアイデアなのか?

インドネシアでも昔から花嫁行列が行われていた。そのとき傘が行列を飾るために用いら
れるのは今でも常識になっている。たとえ行列が行われなくても、披露パーティーの花婿
花嫁の座の近くに大型の黄色い三層傘が置かれていたりするのが普通であり、豊かでない
田舎ですら素朴な披露宴で花婿花嫁の座の傍に必ず小さな飾り傘が置かれている。200
6年11月の新聞には、クラテンのジュウィリンで傘作り職人の作る結婚式用の小さい飾
り傘が1セット2本、10万ルピアで売られているという解説付けの写真が掲載されてい
た。ことほどさように、インドネシア文化では結婚という行事に傘が重要な役割を担って
いるのだ。[ 続く ]