「大郵便道路(5)」(2024年12月18日)

基礎を石で固めた幅7.5メートルの道路というのがダンデルスの指示したスペックで、
1.5キロごとに道標が立てられて距離と地域の境界が示されることになった。政庁はチ
サルア〜カランサンブン区間の道路建設のために3万リンギッの支出予算を組み、工事作
業員は政庁側が1千1百人のプリブミを雇って働かせた。

この建設プロジェクトの責任者として工兵隊のバルタザル・フリードリッヒ・ヴィルヘル
ム・フォン ルツォ大佐が指名された。大佐はチサルア〜チアンジュルとパラカンムンチ
ャン〜カランサンブン区間を部下の技師に担当させた。ふたりの技師はそれぞれがふたり
の将校を助手に使った。

各区間の作業の軽重に従って、作業員への賃金が決められた。イ_ア語ウィキペディアに
よれば、その明細は次のようになっている。
チサルア〜チアンジュル 作業者人数4百人 ひとり月額10リンギッ
チアンジュル〜ラジャマンダラ 150人 4リンギッ
ラジャマンダラ〜バンドゥン 2百人 6リンギッ
バンドゥン〜パラカンムンチャン 50人 1リンギッ
パラカンムンチャン〜スムダン 150人 5リンギッ
スムダン〜カランサンブン 150人 4リンギッ

その諸区間で工事に携わった作業員の中のバタヴィアとプリアガンで募集された者に政庁
は1日あたり1.5ポンドのコメとひと月あたり5ポンドの塩を支給した。さらに斧や他
の作業器具をも政庁側が提供している。一方、チルボンとスラカルタ/ヨグヤカルタで募
集された者にはひと月2リンギッと米10キロが与えられた。作業監督人は月額3リンギ
ッだった。作業が一番重かったのがプンチャッの山越えルートとパラカンムンチャン〜ス
ムダンの山稜を切り開く区間だったそうだ。

それからひと月も経たない5月25日にその工事が完了し、バタヴィアからチルボンまで
のどの場所でも、馬車が快速で走ることができるようになった。


1808年6月18日、ダンデルスは大郵便道路に関わる業務を新規に定めた。バタヴィ
ア・スマラン・スラバヤに郵便業務局を置き、道路沿いの主要地点に郵便物集配機構を設
け、その間で郵便物運搬員が馬車で郵便物の搬送を行うこと。郵便馬車の便宜のためにス
テーションを設けて馬・車両・郵便用具・運搬員の状態を最良に保つこと。

大郵便道路が完成する前の準備段階として出されたその命令書は最終的に1809年12
月12日付けで正式規則として定められた。ジャワ島における郵便業務・道路保全・宿泊
に関する規則がそれだ。

1808年7月、ダンデルスは大郵便道路が通過する計画になっている38地方のブパテ
ィ(県令)を集めて街道作りを命じた。チルボンから東にあるトゥガル・プマラン・チョ
マル・プカロガン・クンダル・カリウグ・スマラン・ドゥマッ・クドゥス・パティ・ルン
バン・ラスム・トゥバン・シダユ・グルシッ・スラバヤ・ポロン・バギル・パスルアン・
プロボリンゴ・クラクサアン・パイトン・ブスキ・パナルカンなどの諸地方、およびアニ
エルからバタヴィアまでの諸地方がその対象だった。道路の仕様は既に作られたバイテン
ゾルフ〜チルボン区間と同じものを踏襲しなければならない。

この道路建設計画の遂行は東インド行政機構を構成する各ブパティが東インド全体の利益
のために主体的に行うべき事業である、というロジックをダンデルスはそこで掲げた。ダ
ンデルスはそれをナショナルプロジェクトにしなかったのだ。東インド政庁は工事の進捗
報告をただ受けるだけであり、工事の実施内容は各県令に委ねられた。しかし工事の完成
を決めるのは政庁の検査官になる。当然、検査官の報告が総督に届けられ、総督が雷を落
とすことは当たり前のように起こったはずだ。

そんな方式が執られたために、大郵便道路建設工事の詳細な記録文書が東インド政庁内で
作られなかった。その結果、それぞれの地元で人口に膾炙した集合記憶だけが現代まで陽
炎のようにたなびいている可能性をわたしは感じるのである。[ 続く ]