「大郵便道路(6)」(2024年12月19日)

ダンデルスの大郵便道路は1年もかからずに完成して、1809年から使用が開始された
という話がある一方で、ダンデルスがジャワ島を去った1811年まで工事が続けられた
という記事もたくさん見られる。インターネットが盛んになるまで、世界の常識は偉い先
生方が決めた単一のセオリーで構成されていたというのに、インターネットはその情報知
識フォーマットを破壊してしまった。人類は果たしてこの知性のカオスから脱け出すこと
ができるだろうか?わたし個人はまったく楽観できないでいるのだが・・・


大郵便道路建設工事が数年かかったという説の中には、工事の進捗状況について次のよう
な解説をしているものもある。

1808年8月、工事はプカロガン地方まで進んだ。ところがジャングルと湿地帯の多い
地区で工事作業員がバタバタと疫病で倒れた。その報告を受けた総督はバタヴィアの植民
地軍医療班を派遣してその対応に当たらせた。

9月には、工事チームがバタンに達した。工事はどんどん進捗して11月にスラバヤに達
した。ダンデルスはその視察に赴き、スラバヤの地勢がバタヴィアよりはるかに防衛戦に
有利であることを看取した。ダンデルスの脳裏にスラバヤへの首都移転のアイデアが生ま
れた。スラバヤでダンデルスは工事チームにジャワ島東端までの工事延長を命じた。18
09年6月、工事はパスルアンに達した。

チルボン〜スラバヤはおよそ6百キロ、スラバヤ〜パスルアン70キロ、パスルアン〜パ
ナルカン120キロという距離と工事期間の関係に整合性が感じられるだろうか?もちろ
ん、あの時代の建設工事が正比例関係にあったなどとわたしが考えているわけではないに
しても。

そしてまた、ひとつの建設チームが、たとえ作業員を現地調達したとしても、順繰りに工
事を続けていったというこの説の前提条件を見るかぎり、上述した「各ブパティの地元プ
ロジェクトにさせる」という効率の良さに対する長期間建設工事説の勝ち目はないように
わたしには思われるのである。


大郵便道路が作られる前、バンテンから東ジャワに陸路で手紙を送ると40日かかったそ
うだ。大郵便道路が完成したあと、手紙は6日で届くようになった。バタヴィアからスラ
バヤまで6カ所の駅で馬を替えながら大郵便道路を馬車で走れば、5〜6日で到着できる
ようになったのである。

18世紀にオランダ人が残した記録によれば、バタヴィアからチパナスまで行くのに8日
かかった。ところが大郵便道路を通ればバタヴィア〜バイテンゾルフは5〜6時間、バイ
テンゾルフからメガムンドゥン(今のプンチャッ)は4時間半、そのあとは多少の起伏が
あるとはいえ下り道だから、バタヴィアを朝出ればその日のうちにチパナスに到着できる
ようになった。アニエル〜バタヴィアをダンデルスは4日かけて馬車で走破したが、大郵
便道路ができてからは1日で目的地に到着できるようになった。

そのように、大郵便道路はジャワ島内主要都市間の交通通信の時間を短縮するのに大いな
る貢献を果たしたのだ。

この大郵便道路は最初、ジャワ島諸都市間の郵便物輸送と軍事目的が最優先されたことか
ら、民間人の騎馬と車両での通行は禁止されたそうだ。民間に解放されたのは1857年
だという解説が見られる。それでも、すべてが無条件で解放されたわけではない。ジャワ
人が牛車に山なりの荷を積んで運送するプダティだけは路上を通行することが禁止され、
道路の両脇に設けられたいわゆる路肩を通るよう命じられた。そのため、道路脇のスペ
ースをひとびとはjalan pedati(プダティ道)という名前で呼んだ。プダティ道は石を敷
いた基礎を持っていないのだから、雨季には泥濘に車軸まで浸かってエンストしているプ
ダティが時おり見られたのではあるまいか。[ 続く ]