「大郵便道路(7)」(2024年12月20日) ジャワの華人プラナカン文筆家のひとりであるリー・キムホッの人物像を描いたティオ・ イースイの作品「Lie Kimhok 1853-1912」が1958年に出版された。その中にジャカル タ‐ボゴール‐チアンジュル地方に焦点を当てて19世紀の交通状況がどんなものであっ たかを描いている章がある。言うまでもなく、そこがリー・キムホッの生涯におけるかれ の生活領域のメインを成すエリアだったのだ。大郵便道路の話が最初に登場する。 大郵便道路 Grote Postwegはジャワ島の端から端までを結ぶもっとも重要な街道である。チアンジュ ルに生まれて13年間過ごし、ボゴールに移って20年間家庭を持ち、最後にジャカルタ に移って丸26年間業績を築いた人物にとっては、大郵便道路こそがその三カ所を繋ぐ道 だったにちがいない。 リー・キムホッ自身ならびにかれの一家は言うまでもなく、家族のためのものから仕事に 関わるものまで、さまざまな用向きのために大郵便道路を旅したことだろう。 チアンジュル‐ボゴール‐ジャカルタの位置は現在と寸分の違いもない。遠くなったわけ でもなく、近くもなっていない。ところがその三つの土地は現在、昔の位置関係から大き な変化を遂げてしまった。世界がいかに小さくなったといえども、チアンジュルとボゴー ルの間は遠いものになり、ましてやジャカルタとの間も80年前に比べていっそう遠く感 じられる。 現代文明の産物である鉄道・自動車・飛行機と昔の担ぎ駕籠tandu・プダティ・カハルド ンダンkahar dongdangという交通機関の違いでそれを測ることはできない。現在と往時の 間に見られる他のさまざまな違いをもってしても、それを測定するのは困難なのである。 こんな言葉からその困難さを現代のわれわれが感じることも難しい。 Voor den toerist van heden, die rustig in een expresse-trein of luxe-auto daar henen stuift, zoude het een eindlooze kwelling geweest zijn. Een reis naar Buiten- zorg (van Batavia ongeveer 39 paal) was toen nog een heele tocth..., en verderop was de Preanger toen nog vrij wel "terra incognita." (急行列車やデラックスカーで快適な旅をする現代の旅行者にとって、昔の旅は限りない 責め苦であった。ジャカルタから39パアルの距離でしかないボゴールへ行くだけでも、 その遠さは生半可なものでなかった...もっと遠い秘境プリアガンにおいておや。) 大郵便道路はダンデルス総督(1808−1811)が民衆を強制して既存の街道や村道 を拡張あるいは改善させ、また新たに原野を切り拓かせたりして、およそ一年間(180 8〜1809)で建設した。スンダ海峡のアニエル(ジャカルタにとっての外港‐現在の タンジュンプリオッのようなもの)からバリ海峡のバニュワギまでの600パアルの長さ を持つこの街道は軍事面において、イギリスのジャワ島進攻に対する防衛機能の向上を目 的にしていた。 もっと昔の1754年には、ジャカルタとスマランの間に公的交通制度が設けられている。 半月ごとに郵便船pos pencalang (penchaling)、海上の帆船、区間郵便、陸路の郵便馬車 がその間を往来した。 大郵便道路はジャカルタ〜ボゴール街道をメガムンドゥン山頂を越えてプリアガンに延長 させ、アニエル〜パナルカンの踏破日数を40日から6日に短縮させた。大郵便道路はジ ャングル・高い山・断崖絶壁・広く深い河を乗り越えた。ボゴール〜ジャカルタ間の、中 でもブカシ近辺の密林は凶暴な野獣の棲息地であり、また盗賊や人殺しあるいは逃亡奴隷 が逃げ込む隠れ場所になっていた。(奴隷制度は1860年に廃止されている。)またボ ゴール〜チアンジュル間ではプンチャッ付近に凶暴な野獣が棲み、上り坂周辺には特にサ イが出没した。[ 続く ]