「大郵便道路(8)」(2024年12月23日)

乗り物
大郵便道路は建設されてから半世紀を過ぎるまで、騎馬で、あるいはタンドゥ、プダティ、
レイスヴァーヘンreiswagen、バロスbaros、カロスkaros、郵便馬車などのその当時の乗
り物に旅人が乗って通り過ぎる姿を見ることは稀だった。

人間を乗せた台を人足が担ぎ上げて運ぶ、輿あるいは駕籠かきの原理を使ったタンドゥと
いう乗り物はjoli, usungan, palki(palakijn), geotan, draagstoelなどという名前でも
呼ばれた。今では山登りをするひとのために登山地で使われているだけだ。タンドゥの中
には、綱で繋いだ二本の竹を人足が担ぐだけの簡便なものもあり、ひとが乗ると地面すれ
すれになるので地上に出っ張りがあるとこすられることも再三起こった。

タンドゥには一人乗りまたは二人乗りのサイズのものがあり、二人あるいは四人の人足が
担いだ。ジャカルタ〜ボゴール間では行きも帰りも人足一人にF1.25くらいが支払われた。
ボゴール〜チアンジュル間では行きも戻りも人足一人がF2を与えられた。タンドゥの借賃
はまた別で、貸し出してから戻って来るまでの使用料がF25からF30だった。(訳注:Fと
はフローリンという通貨単位のことで、オランダの通貨フルデンの別称として使われてい
た。プリブミはフルデンをルピアとも呼んだ。)


行程には危険が満ちていたため単身で旅をする若い女性はおらず、また良い家庭の未婚の
娘は家の奥に隠される習慣になっていたことから、女性が外出する際に家の表でタンドゥ
に乗るようなことをせず、必ず家の塀の中で乗って他人の目に触れないようにしてから家
の外に出た。日射や雨そして人の目から女性の姿を覆うべくタンドゥの上部と周囲が竹編
み板で覆われ、そして父親・夫・男兄弟などの一家の男たちが付き添って警護した。

若い女性たちが誘い合い連れだって遠出するときは、仲間の女性の乗ったタンドゥが迎え
に来ると、その家の女性が家の門の内側でタンドゥに乗り、付添いと共に門の外に出て合
流した。そのような旅は何台ものタンドゥが集団で移動する華やかなものになり、大集団
になればなるほど世間が喜んだ。

そんな出立が起こるとまるで屋台行列のような賑わいになり、カンプンの住民が総出で見
物しに集まってきた。このような出来事は日常起こるものでないから、あたかも俄か祭り
のようなものになったのだ。若い女性たちにとっても遠方へ出かけることなど容易にでき
ない日常だったから、女たちの喜びはしゃぐ華やいだ雰囲気がその一帯にいるひとびとを
浮き浮きさせた。

タンドゥ担ぎ人足たちはジャングルなどの人影乏しい場所にくると大声で唄ったり叫び声
をあげた。疲れを忘れて元気を出すためというよりも、野獣や盗賊たちに出て来ないよう
にさせる目的のほうが大きかったようだ。


プダティは牛や水牛が引く荷車で、一台に積む荷物が多ければ多いほど費用の節約になっ
た。この荷車は巨大で重かったから、路面の固められた大郵便道路を通ることが許されず、
道路脇に作られているjalan pedatiと呼ばれる部分を通らなければならなかった。ジャラ
ンプダティは雨季になるとぬかるみ、乾季になると厚い埃の層になった。特にプンチャッ
周辺のジャランプダティで山越えする際にひどいことが起こった。急斜面で車軸までぬか
るみに埋まると二進も三進も行かなくなる。そんなときは馬を借りて押したり引いたりし
なければならなくなった。

タンドゥとプダティは長い間一般庶民の足として使われた。そこに登場したのがカハルド
ンダンだった。これはkahar-per, kahar balon, kahar-perahu, keretekなどとも呼ばれ
た。今でも奥地の村々で目にすることができる。これが登場したとき、タンドゥやプダテ
ィよりも軽快で速く、値段も廉い理想的な乗り物と世間は考えた。1〜2頭の馬で車両を
引き、4人まで乗ることができ、ボゴール〜ジャカルタ間の片道料金はf12.5、ボゴール
〜チアンジュル間はf15。しかしプダティと違ってカハルは行程の途中で何度か乗り換え
をしなければならなかった。カハル運送業者が特定の村に交換用カハルを用意しており、
街道を走ってその村まで来ると、乗り換えのための休憩が行われた。プンチャッ越えの道
にある急な上り坂まで来て馬が進めなくなると、牛や水牛を借りて来て押したり引いたり
することが行われた。[ 続く ]