「傘と笠(15)」(2024年12月26日)

チャピンカロはクドゥスの郷土文化における花嫁衣裳の標準アイテムになっている、と県
庁文化観光局観光振興課長が語った。標準的な花嫁衣裳はbaju kurung beludru, jarik 
sinjang laseman, selendang tohwatu, selop kelompenそしてcaping kaloで構成されて
いる。チャピンカロはこれから作る新婚家庭に憩いと平穏をもたらすものという意味が与
えられている。郷土舞踊のKeretek踊りでも女性はチャピンカロをかぶることが不文律に
なっている。

県庁はチャピンカロを郷土文化にとっての重要な品物と位置付けて、プロモーションの機
会があればいつもチャピンカロをそこに登場させるようにしている。それと同時に制作技
術が伝承されなくならないようにするために、竹職人に制作指導を行い、また技能系教育
機関でも学校生徒に製法を教えているとのことだ。


普通のチャピンは作り方を教えれば誰にでも作れるものであるため、各地の需要は各地で
作られたもので満たされているように見える。生産センターに位置付けられるほどの生産
量を持つ特定地域は見当たらない。もちろん地域的な生産センターはあるだろうが、州内
の需要を一手に引き受けるほどの規模ではなさそうだ。

中部ジャワ州スコハルジョ県ガタッ郡にあるガウォッ市場のチャピン売場には2百個近い
チャピンが並べられ、大きさによって1個1.5万から5万ルピアの価格で販売されてい
た。ジャワでは農民男女の必需品だから、必ず買い手が付くのだろう。雨季になると販売
量が3割増しになるという販売人の話だった。


バンテン州タングランは植民地時代から編んで作る帽子の産地として名前が知られていた。
今でも竹編み帽子の生産が盛んであり、その帽子はチャピンと呼ばれずtudung bambuと呼
ばれている。形状はソンブレロに似ており、頭を入れる部分が円筒や半球の形になってい
て縁を幅広のつばが囲っている。

小説マックスハフェラアルの筆者エドゥアルド・ダウウェス・デッカーがバンテン州ルバ
ッの副レシデンとして赴任したのは1856年で、小説は1860年にアムステルダムで
出版された。その小説の中にバドゥル部落に住むサイジャとアディンダの純愛悲劇のエピ
ソードが挿入されている。

サイジャがバドゥルからバタヴィアへ金を稼ぐために上京したとき、その途上でタングラ
ンに住む父親の知り合いの家に泊めてもらった。その知り合いはサイジャの父からマニラ
帽子の作り方を習った人物であり、サイジャは最悪の事態を予想してその知り合いに帽子
の作り方を教えてもらったということが書かれている。デッカーが勤務したころ、タング
ランは編み帽子の生産地として名前が知られていたことがそこから感じられる。

タングランの帽子産業は植民地時代から1960年代ごろまで黄金時代を続けていた。植
物素材を編んで作る帽子は19世紀を通してアジア・ヨーロッパ・アメリカなどで流行フ
ァッションになり、それは1955年ごろまで続いた。世界のそんな流れがタングランの
帽子産業に影響を与えたことは言うまでもあるまい。[ 続く ]