「大郵便道路(11)」(2024年12月27日) < アニエル Anyer > スンダ海峡の最も狭い場所のジャワ島側にアニエル、スマトラ島側にトゥア岬があり、そ れを結ぶ航路の中間にサ~ギアン島が横たわっている。オランダ人はその島をDwars in den Weg Eiland(道を横切っている島)と呼んだにもかかわらず、インドネシア人はそれをイ ンドネシア語の地名にしなかった。 現在のアニエルは北アニエルと南アニエルに行政区が分かれているが、ダンデルスがやっ てきたころのアニエルは今の北アニエルだけだった。その時代のアニエルは各地からひと や貨物が集まって来る港であり、ヨーロッパやアジアそしてヌサンタラのあちこちから帆 船がやってきた。アニエルはバンテンスルタン国の重要な港のひとつだったのだ。 総督に任じる辞令を受けたダンデルスはオランダからジャワ島に向かった。だが世界の要 所の制海権を握っているイギリスはジャワ島防衛の鍵を握る新総督をその途上で捕らえよ うとして厳戒態勢を敷いた。それを避けるためにダンデルスはオランダやフランスから船 に乗るような愚かな真似をしなかった。ダンデルスは陸路、フランスの友好国であるスペ インに向かったのだ。 ダンデルスはスペインから米国に渡り、ニューヨークからアジアに向かう船に乗った。米 国はナポレオン戦争に対して中立を宣言していたから、そのときのダンデルスにとっては もっとも安全な道程になった。ダンデルスを乗せた米国船はアニエルに入港した。 アニエルに上陸したダンデルスはその港を戦略上の要衝と見なし、そこに新型要塞を建設 させた。ところが1883年のクラカタウ火山大爆発による津波のために、港町も要塞も 跡かたなく姿を消した。津波のあと港町アニエルは復興することなく、かつて賑わった国 際港は昔語りとなり、今はパク港という名前の漁港に姿を変えている。 アニエル南部にあるチコネン村のボジョン海岸に灯台が建っている。高さ75.5メート ルのその白亜の灯台は1885年に建てられたものだ。この灯台の近くに大郵便道路の原 点「0キロメートル」の記念碑が作られている。話では、その灯台のある場所から大郵便 道路が始まっていると言うのである。 大郵便道路は1808年に建設が開始されたはずだが、原点が1885年に建てられては 話が合わない、とおっしゃるのはごもっとも。1885年に建てられた今の灯台は、18 08年に建てられた最初の灯台を後継したものだ。1883年のクラカタウ大爆発の津波 のために最初のものは跡形もなく地上からかき消えたのである。アニャル市場を越えた丘 の上まで、旧灯台の一部が運ばれた。現灯台から20メートルほど離れた位置に旧灯台の 土台だけが残されている。 ほぼ1世紀半という歳月の刻み込まれたその歴史遺産は現在もスンダ海峡を航行する船に 25海里のかなたまで光を投げかけている。この灯台は週末だけ有料で一般開放されてい るので、そのときに観光客も自由に中に入ることができる。 このアニエル灯台近辺の海岸の岩礁でタコを捕まえている地元民が何人もいる。かれらは たいていチャリタから引っ越してきた者たちだ。かれらが言うには、タコ獲りは先祖代々 伝えられてきた仕事だそうで、食料確保と現金収入を得る道のひとつにされている。クラ カタウ火山大噴火の前から、この地方ではタコ獲りが行われていたそうだ。 タコ獲りの道具は3〜5メートルの竹の棒だけ。尖らせた竹の先にその辺で捕まえたカニ を7〜9匹サテ刺しにし、一番上を釣り糸で縛る。その竹の先を岩礁の隙間に差し込んで、 小さいタコがしがみついてくるのを待つのである。 2013年のコンパス紙記事に書かれたタコ獲り人のひとりの話によれば、一日20匹く らいの収穫があり、観光客に一匹2万ルピアで売れるそうだ。日本人や韓国人の観光客が 来ると、かれらは獲れたてのタコを酢だけ使ってそのまま食べると語っていた。観光客に 売れなければ仲買人に一匹7千ルピアで売れるとのこと。 タコ獲りについては、バリ人庶民も海岸へ行ってタコやウニを捕獲している。たいていみ んな、それをペットボトルに詰めて売る。海は食べ物の宝庫であり、昔われわれ夫婦はグ グル海岸へ砂浜歩きのために行ったついでに浜に打ち上げられている海藻を集めて家に持 ち帰り、それを茹でて食べていた時期がある。バリ島での暮らしというのは人間に動物的 な暮らしを思い出させる契機を秘めているのかもしれない。[ 続く ]