「傘と笠(17)」(2024年12月30日) タングランの文化研究者であるウイ・チンエン氏は、1880年代に竹編み帽がタングラ ンを象徴するアイコンになっていたと物語る。オランダ東インド植民地軍が竹編み帽をよ く使っていた。東インドからフランスに輸出されてファッション商品になったこともある。 ヨーロッパとラテンアメリカが主な輸出先になった。 タングランの竹編み帽は外国人観光客がよくかぶったし、ヌサンタラに航海して来たフラ ンス船の上級下級乗組員がたくさん買った。フランス人は大量に帽子を購入して船に積み、 帰国してからマルセイユ・ボルドー・パリなどで手広く売っていたそうだ。その代表格と してプティッ・ジャンというビジネスマンの名前が人口に膾炙している。 オランダ東インド政庁もこの売れ行きの良い東インド産品を1910年に輸出振興商品と して取り上げ、販売プロモーションに注力した。おかげで1928〜29年には輸出が激 増した。現在もタングランで活動している生産者グループの古い記録には、1930〜4 0年代にかけてオランダと米国への輸出がなされたことが記されているそうだ。 プラムディヤ・アナンタ・トウルの著作には、タングランの竹編み帽子産業がタングラン という地名を世界に広めたと書かれている。1887年には一年間に1億4千5百万個の 竹編み帽がフランスをメインにして輸出され、欧米や中南米の港湾労働者がタングラン産 の帽子をかぶっているのが普通の姿になっていた。しかし日本軍政期以降、続く独立革命 の期間を通してタングランの帽子産業は鳴りをひそめ、再起しないまま永遠に向かって時 が流れ続けた。プラムのその著作は2005年に出版されている。 タングランで作られる帽子にはboni型、vilt型、padvinder型などがあり、1955年に はシンガポール向けにvilt型の製品が輸出され、他のモデルは国内販売された。その年を 越えると販売が下降しはじめ、1960年代に入ると息切れが起こって往年の栄光が色あ せて行った。その原因を、一般庶民が手作業で作る製品の品質が市場競争で通用しなくな ったためだと分析した論もある。コンペティタ−諸国が出してくる製品の品質に対抗でき なくなったのだろう。 タングランを含めて、アジア文化では植物素材を編んで道具を作ることが伝統的な習慣に なっていた。しかし竹編み帽子に限ってコメントするなら、タングランの工場で使われて いる機械類は時代遅れのものであり、手縫い仕事も単純素朴な内容で行われ、現代化の息 吹がまったく吹き込まない状況が長期間にわたって続けられていたのである。 更に言うなら、タングラン産竹編み帽を好んで使っていたエジプト人も1950年代にナ ツメヤシの葉で編む帽子を開発して自国産に乗り換え、シンガポール経由でエジプトに流 れていた輸出品の動きが止まるというようなことも発生していた。 タングランの一般庶民が行っていた竹編み帽のパーツを作る内職は、庶民が自分の暮らし の余暇を埋めるための仕事でしかなかった。たいていのケースでは、主婦が日々の家庭生 活のための仕事をつつがなく終えた後の、時間の余裕ができたときに取り掛かるものだっ た。料理を作り、子供を寝かせ、家の中を整理したあとでしか、なされなかったのである。 1955年ごろはたいていひとりが一日に頭の入る部分を1個もしくは縁を2個、最大で も頭を2個作った。[ 続く ]